第2章《獣狩り》

 

9.【相克の因】

 

「いたぞ!」
 誰かが叫んだ。それは、一つの争いの始まりだった。
 いいや。もう、争いは始まっていたのだ。
 まさに血で血を洗うような、同じでありながら背反する一族同士の争いが。

 

 ───走った。もう、どのくらい走ったのだろう。息が切れ、立ち止まれば膝が笑う程に疲れ果てていた。
 彼は村を飛び出した時と同じように、砂漠を走っていた。ただ、あの時よりはましな格好だった。ボロボロだが、砂を避けるための布。それに僅かばかりだが飲み水もある。
 あれから十数年程が経ち、少年は青年へと成長していた。
 魔法を扱う力も格段に成長し、その存在は、もはや毒使い達の中核となっている。
 何故こんな事になったのか。子供の頃は分からなかった事も、大方の事情も分かっているつもりだ。だが、現状が把握出来ない。こんなことになったそもそもの原因は分かっているが。
 薬使いが、とうとう奇襲をかけてきたのだ。
 対立する一族同士。しかし魔法学に疎い一般人からは同種と見なされ、嫌悪される事もあった。毒使いは元から忌まれているところがあったため、そんなことは対して気にならないのだが───薬を作り、行商をしている彼らは違う。彼らは人々に受け入れられてこそ生活が出来るのだ。それが作った薬を毒薬だと思われてしまえば、たちどころに受け入れられなくなってしまう。

 一つの事件が、事の発端だった。
 ある薬使いが売った薬を一般人が口にした途端、死んだと言うのだ。
 周りは毒を売ったんだと騒ぎ、薬使いを追い立てた。さらには事を聞き付けた近隣の『王宮魔導師』と『高等魔法使い』が駆け付け、調べたところ、それが毒だと証明されたのだ。さらに最悪だったのが、この事件の起こった街が魔法推進国『エアファクト』寄りだったこと。ただでさえ魔法を支持する者達が集まった街だと言うのに、そこに現れて毒だと証明した人物が王宮お抱えの腕利き魔導師と、高等魔法使い……つまり、魔法においては申し分ない知識と腕を持つ者ときては、魔法を信仰している人々が信用しない訳がない。薬使いは一気に窮地へ立たされた。
 ただ、これだけでは薬使いも毒使いを滅ぼそうとは考えないだろう。さらに事へ追い打ちをかけたのが、スパイが見つかったことだった。薬使いが「これはおかしい」と内部調査をしたところ、薬使いの集団の中に毒使いが見つかったというのだ。
 スパイと言われた毒使いは、無惨にも、命を絶たれて同胞の目の前で転がされた。
 今でも目を閉じれば、ありありとあの時の光景が思い出される。

 

 突然薬使いが「話したい事がある」と言ってやってきた。事情を知らない毒使い達は代表を一人出すと、薬使いからも一人が出てきて、事を説明してみせた。毒使い達は到底信じられないと言葉にすると、布袋を抱えた二人の薬使いが前に出てきた。
「証拠だ」
 言葉と共に布袋から何かが転がり出てきた。
 薄く開いた目。決してたくましいとは言えない体格。転がり出てきたのは、青年がまだ少年だった頃、やけにあっさりと一族の事情を語ってみせた男だった。
 身体中に傷を負った男の身体が、打撲音と共に不自然に揺れる。誰かが息を飲む音が聞こえた。
「これで言い逃れは出来ないな」
「貴様っ……!」
 代表として出ていた男が薬使いに殴りかかろうとし、周りの者達は彼を必死で押さえた。殴りたいのは青年───エルヴァイン───も同じだった。こうして仲間の死体を目の前で転がされ、挙げ句に相手はそれを蹴りつけてみせたのだ。
「憎いか?」
「ああ、憎いに決まってる!」
「ならば、戦おうか」
 はた、とざわめきが止まる。初めは言っている事が理解出来なかった。だが、薬使いはにやりと笑って、説明をする。
「戦おうか。一族の生存を賭けて」
「なっ……」
「なに、そう難しいことじゃない。お互いに潰しあうだけだ。こちらはこの死体で無実が認められ、一国の王の命令で、お前達の処分をするように言われている。我々も失敗をすれば消されるだろうがな。都合がいいじゃないか。互いにやっと決着を付けられる」
 一間置いて、薬使いは言う。
「お前達の得意な、殺し合いをしようじゃないか」
 毒使い達を逆上させるには、充分な一言だった。
 投げ捨てるような薬使いの言葉を聞いた若者が案の定、逆上し「ふざけるな!」と喚いた。
「真面目な話だが」
「冗談じゃない! 殺し合いだって? 女子供もいるんだぞ!」
「女も子供も関係ないさ。逆に言えば、あまり手慣れていない我々より有利だろう」
「手慣れてない? 殺したくせに! いくら自分達が助かるためでもっ、こんな、酷い……」
「ああ、これのことか?」
 泣き叫ぶ女の声を聞いて、薬使いの一人がぼろぼろの亡骸を足で小突いてみせた。
「お前達は、もっと大勢殺しているだろう? それでも仲間が死ぬのは耐えられないのか」
「それは……仕方無かったんだ! 他に方法がなかったんだ!」
 ───解ってる、解ってるさ。自分達が非常識なことくらい───
「毒しか使えないから」
 ───俺達は非常識な存在で、居場所がない───
「そうだ、生きるために取った手段だ!」
 ───広い目で見れば、俺達こそが『異物』で消えるべきなんだ───
「結局、殺している事に変わりない」
 反論の言葉も出ない。その言葉が言い逃れの出来ない事実を指し示しているから。
 ───だけどこうやって、同じく消えるべき相手を探して、俺達が消す───
 事実を言ってみせた薬使いには目をくれず、エルヴァインは静かに前に出た。それを見た仲間の毒使い達は、彼が何かするのかと不安げに見つめていた。
 ───大衆の目を上手く誤魔化してることになるな───
 やがて仲間の亡骸の元へ辿り着くと、彼はその薄く開いている目を閉じさせた。あの時、あっさりと事を語ってみせた表情とは変わり、どこか苦痛に歪んでいる。
 誰かが、叫んだ。

「だったら、逆に……お前らの一族を、根絶やしにしてやる!」

 ───ご先祖が誰かに呪いでもかけられたかね───
 呪い。
 そうだ、呪い。これは呪いなのだ。毒と薬……使い方次第では、薬が毒になるし、逆に毒が薬になる場合だってある。それなのに、その名前だけで薬使いは受け入られ、毒使いは嫌悪されてきたのだ。今となっては人殺しの一族として歩んで来てしまったが、毒使い達にだって人殺し以外に受け入れられる道はあったに違いない。
 だが今更取り返しはつかない。生き残るために幾つもの死体を積み上げて来たのだ。懺悔をしようにも、懺悔する相手もいない。
「こちらが選んでやったんだ。お前達には、これ以上の選択権も、拒否権もない」
 見下すように薬使いの誰かが言った。元々、昔から敵同士だったのだ。もはやこれは、人々に認められながら生存する権利を賭けた戦争が始まったに等しい。
「さあ、始めよう」
 薄笑いを浮かべながら薬使いは言う。

 ───その時、彼は確かに激昂したのかもしれない。あまりにも一瞬の事で、誰もが何が起きたのか知覚出来なかった。

 エルヴァインは気がつくと、高らかに宣言した薬使いの男の顔を掴んでいた。
「ぐっ……は、ははは……さっそく俺を殺すのか。さすがは人殺しの集団だ!」
 顔を掴まれたまま男は叫ぶ。はっとして手を放すと、男は逆にこちらの首を締め上げた。
「……かはっ……」
「はははは! 馬鹿め! 隙を見せたら殺されるぞ!」
 笑う薬使いに締め上げられるエルヴァイン。狂気で占められた異質な光景を薬使い達は見届け、毒使い達は恐怖と驚きに目を見開いていた。
 身体は宙に浮き上がり、見せしめのように首を絞められた。エルヴァインがいくら細身とは言え、一人の男の身体を片腕で持ち上げるなど、どれほどの腕力があるのか───恐らく魔法を使って腕力を強化しているのだろう。薬使いは毒使いと違って多種多様の魔法を駆使出来る。
 こぽり、と、何かが枯渇する音が聞こえる。
 ───ああ、そう言えば、前にも似たような事があった。
 エルヴァインは昔の事を思い出していた。まだ、彼が村を飛び出す前の───村を飛び出すきっかけになった事を思い出していた。
 薬使いは高揚しているのか。口元に歪んだ笑みを浮かべながら言う。
「死ね。我々のためだ」
 ───死ね。リフィのためだ───
 薬使いの発した言葉が、昔の声に重なる。
 また、何かが枯渇する音が聞こえた───

 その瞬間、エルヴァインは首を締め上げてくる男の腕に自分の手を添え、思いきり力を込めた。
 骨の軋む音がする。普通に力を入れているにしては随分な音だ。
 それは純粋な腕力によるものではない。自分の首を締め上げている腕と同じように、魔法を使って身体能力を向上させているからこそ成せることだった。
「ぐっ……なっ、馬鹿な……! 毒使いのくせに、他の魔法を……」
 驚きと腕を掴まれた痛みから、薬使いは首から手を放した。
「生憎と、俺は『純粋な毒使い』じゃないんでね」
 地に降りたエルヴァインは咳き込みながらも、にやりと笑って薬使いを見上げる。その様子を薬使いの女性───自分と同じような色の髪を持つ───が、目を見開いてみていた。
 誰もが呆然とする中、彼は後方にいる仲間達に叫ぶ。
「何してるんだ! さっさと走れ!」
「え、エルヴァイン、お前は」
「行け!」
 鞭打たれたかのように、毒使い達は一瞬身を竦ませ、次の瞬間には散り散りになって走り出していた。それを追うように薬使い達は動きだそうとするが、エルヴァインがいつの間にか代表として出ていた薬使いの男の首を掴んでいる。
「さっきはよくもやってくれたな」
「ひっ……」
「殺し合いはもう始まったんだろ? だったら、お前らも殺される覚悟は出来ているんだろうな……後ろの奴らも動くな。動いたら、今すぐこいつの首を締め上げる」
「ま、待ってくれ! なあ、落ち着いて話そうじゃないか、聞いてくれ」
「よくそんな台詞が吐けるな。最初にこちらの話を聞かなかったのは誰だ!」
 睨み付ければ、薬使いは恐怖から縮み上がる。
「悪かった、悪かったよ、なあ」
 懇願するその目が昔の光景と重なる。辺りを見回せば、その目は全て恐怖と畏怖に変わっていた。仲間を救う勇気のある者などいない。ただ、自分達が殺されるのではないかと言う恐怖から自己防衛をしようとしているだけの目だ。
 ───同じだ。『あの時』と。俺がただの、見せしめのための生け贄の羊とでも思っていたのだろうか。それを証明するかのように、俺がこうして激昂し、狼のように牙を剥き出してやれば一気に立場は逆転した。
「は、放せ、その手を放せ」
 掴んだ首が震えている。見やれば、薬使いの男がいつ締め上げられるのかという恐怖に怯えながらも喋っていた。
「放さないと、逆に、こちらが殺してやるぞ」
 怯えているのか、混乱しているのか。泣きそうな顔をしながらも言ってみせた。彼の言葉に反応する者までいた。
「……見てみろ。お前は一人。こっちは何人居ると思っている?」
 一人が魔法をいつでも使えるように手を挙げると、つられて何人もが構えだす。
「そうだ、お前がいくら普通に魔法を使えようと、この数ではこちらの方が有利だ!」
 誰かが叫ぶと、一斉に賛同する声が上がった。
「馬鹿にしてるのか? 手を放した隙に、お前らは一斉に魔法を放ってくるだろう」
「はっ。毒使いでも少しは頭が使えるようだな!」
 先ほどまで怯えていたくせに、数では自分達の方が有利だと気がつくと、首を掴まれている男はこちらを中傷した。しかし負けずに言い返す。
「少なくとも、お前よりは」
「面白い奴だ! だが、お前が手を放さずとも立場は同じだ」
「何?」
 首を掴まれていた男は、怯えていたのが嘘のように不敵に笑んだ。
「言われなくとも、とっくに死ぬつもりだ。お前を巻き込んでな」
 そしてこちらの腕を掴む。
 触れられた部分が妙に熱い。人の体温では成せない程の温度にまでなった掌は、僅かに火の魔力を帯びていた。布の焼け焦げる臭いが鼻をつく。
「まさか、心中するつもりか……!?」
「そうだ。予定が変わったがな! 最初から“爆薬”として、俺はお前らの中に飛び込むつもりだったんだ!」
 腕を振りほどこうにも、筋力増強でもしているのか。びくともしない。触れられた部分は熱さを超えて痛みに変わり、煙が上がっていた。
「ぐっ……」
「あはははははははははははははは!」
 痛みに耐えるエルヴァインと、狂ったように笑い出す男。
 そんな彼らから離れていく薬使い達。彼らは散り散りになって逃げた毒使い達を追いかけ出していた。

 まだ逃げ切れていなかった子供が捕まる。女が捕まる。老人が捕まる。そして焼き殺され、絞め殺され、斬り殺され。叫び声も挙げられないうちに肉塊へと変えられていく。
 母を殺され叫んだ子供も、その身体に業火を浴びて焼け焦げた。あの日、逃げだした自分よりもまだ幼い子供だった。
 殺し合いを始めようと宣言されてから数分。その間に見るに堪えない程の死体が積み上げられていく。嘘のようにあっさりと出来上がる山々。そして瞬く間に広がる臭気。
 そこでは戦争ではなく“狩り”が行われていた。
 だが、ただの狩りとは意味が違う。捕食する訳ではなく、戯れで獲物を狩っているのだ。自分が生き残る為に他の命を奪う獣ではなく、知恵を持ち、獣以上に欲を持った人間だから出来る行為だ。
 無惨な遺体が転がるにも関わらず、あまりの光景を目にし、冗談にしか思えなかった。しかし、じわじわと『殺されている』という実感が押しよせる。次へ次へと“狩られる”姿を見て、叫んでいた。
「くそっ、放せ……放せ!」
「ははははははははは!」
 目を見開いて愉快そうに笑う男は、いくら叩こうが蹴ろうが腕を放そうとしない。
 狂気じみた笑みを浮かべた顔はどこかであの時の───自分の首を締め上げた人物の顔と、だぶって見えた。
 何かが沸き上がって来る。ああ、これは怒りだ。
 また、こぽりと枯渇音が聞こえた───『あの時』と同じ───

 ───我慢の限界だ───

「かっ!?」
 空いていた掌に緑色をした霧の固まりが表れる。それを自分の片腕を掴んでいた男の口へと叩き付け、吐き出せないように口を掴んで押さえてやれば、やがてどろりとした粘着質の液体がついた。血だ。しかし、血にしては妙な色も混じっている。
 見てみれば、腕を掴んでいた男の顔は半分融け落ち、骨を晒していた。毒によって皮膚を融解させられたのだ。
 断末魔、まさにそれだろう。男は自分に起きたことを理解してはいないが、痛みで自らの顔を被った。だが、その手は爆発させるために魔法を発動させ、発熱していた。自らが放つ熱さに悶え苦しみ、すぐに魔法を切り替え回復させようとする。灼かれて煙を上げる自分の片腕に痛みを感じながらも、間髪を入れずに再び強襲し、男の喉を掴んだ。そのまま先ほどと同じように魔法を発動させる。
 今度は喉が融かされた。消失してしまった喉では叫ぶ事も出来ず、ただ激しい呼気の音が漏れて男が地面を仰向けに転がる。男の右手を踏み付けて固定し、魔法を使って腕力を強化。最後にありったけの力を込めて男の頭に拳を振り落とした。
 割れ砕け、潰れる音。血と脳漿が溢れ、ゆっくり砂の上を流れ出す。自身の腕にもついた。
 短く息を吐き、気持ち悪さを感じる前に腕を振るってそれを払うと、辺りを見回し、薬使いの一人へと走って近づく。
 薬使いは近づいて来た自分に気がつくと、火球を放ってきた。それを跳んで避ける。
 軌道を追うように次々に火球が放たれる。その一つが眼前へと迫った。避けられる距離ではない。そう判断した薬使いは勝利を確信し、にやりと笑む。
 だが。
「遅い」
 飛んできた火球を同じく火球で払い、相殺させた。そのまま勢いを殺さずに薬使いの眼前に降り立つと、その顔を灼かれていない手で思いきり掴んだ。
「あ、くぁ……」
「さっき、子供を殺したよな?」
 足元には炭となった小さな身体。先ほど焼き殺されたばかりの死体だ。
「ま、待ってくれ……!」
焼かれる苦しみを味わえラ・アール
 発火しろフィア。そう念じると指先から火が上がる。火はあっという間に燃え広がって、薬使いの身体を包んだ。薬使いは炎に包まれながら地面を転げ回る───それを焼いた本人は、濃紺の瞳で静かに見下ろしていた。いいや、見下すと言った方がいい。向けている瞳には、脆弱な生き物への侮蔑の色が込められている───。
 眼球の奥までも焼き尽くされ、見下していた身体は動かなくなった。それを見届けると、感情の起伏を浮かべずにゆっくりと歩き出す。
 何に対して怒っているのか。薬使いの、毒使いに対する仕打ちにか。彼らはほぼ、身内も同然だ。
 しかし、違う。沸き上がって来るものが───底の深さが違う。
 薬使い達に対する怒りが浅瀬であるとするなら、今この身に沸き上がっている感情はもっと奥深くからやってきていた。毒使い達が追われる事に、哀れみと憎しみを抱くのが普通なのだろう。血の繋がった家族ではなくとも、仲間なのだから。
 だが、先ほどから沸き上がっているのは哀しみと憎しみと絶望だ。絶望? どうして俺が抱かねばならない。相手が弱い事に対してか? そんな馬鹿な。殺戮に狂喜するほど、俺は闘争を好んではいない。引き金となったのは……あの、顔か。
 理解すると、潜んでいた怒りが自分でも驚くほど一気に膨れ上がった。
 俺は何のために殺したと言うんだ。
 後ろを振り返り、二つの屍を見る。
 あれは、自分が作り上げた。あっさりと殺した者達だ。
 正直、自分の力に怖気が走る───そう思っていたのは思考だけだった。心の方は何の感慨も抱いていない。転がる屍を見つめるだけだ。
 ───お前が恐ろしいからだ───
 強大すぎる力は周りにとって恐怖にしかならない。昔に言われた言葉を思い出し、自分のしていることを改めて振り返った。
 自分のしていることは愚かだと頭で理解する。これは仲間を殺された事に対する仇討ちではない。自分の精神的外傷トラウマが呼び起こしたものなのだ。
 だがいくら頭で分かっていようと、沸き上がってくる破壊衝動を止める事は出来なかった。向き直るとさらに表情を引き締め、歩き出す。
 ───振るえ、振るえ。お前にはそれだけの力がある。
 そんな女の笑い声が聞こえたのは、気のせいだろうか。

 

 そうして、薬使いが奇襲を仕掛けて来てから数年が経つ。
 散り散りになった仲間達は無事でいるのだろうか。それすら確認する事が出来ない。
 狂い狂った殺戮と、誰か一人を殺める度に襲ってくる虚しさ。そんなものにさえ慣れきってしまっていた。死ぬ寸前に吐かれた呪詛の言葉すら心地いいと思えるのだから、よほどだ。
 堕落していくのが、よく分かる。
 いいや、分かっていた。一人に手をかける度に、一つずつ、一つずつ、確実に何かが削がれていくのを。“良心”か? しかし、今さら自分の心理状態を把握したところでどうにもならない。
 そもそも、自分は何故こんな目にあっているのだ。薬使いが奇襲をかけて、毒使い達に育てられ、毒使いに拾われ、死にかけ、砂漠を走り、追い出され───。
 ───そうだ。あの場所が因果の始まりか。
 あの場にいなければ、捨てられなければ、こうなることもなかったのだろう。
 答えはあまりに簡潔すぎて、我ながら子供のような発想だと思う。しかし今の自分が始まったのは、確実にあの場からだ。幼かった頃は苦痛を受けた覚えは無かった。逆に幸せであったくらいなのだ。
 だが、一変した。あの時から。
 自分は知らなかっただけなのだ。“あのこと”については、本当に知らなかった。
 いくら賢いと言われようが、物事の判断材料が一つも無ければ何も出来ない。無知と同じだ。
 そしてあの村について無知だった俺は、無知であるが故に異物とされて“化け物”とされて虐げられ迫害を受け飛び出した。苦痛と辛苦と悲哀と希望と畏怖と絶望と蔑みと愛憎と、どれだけの感情が渦巻いていたのだろうか。
 今となっては意味が無い。確かにあの出来事は傷となって深く刻まれているが、もはやそれは抱えるしかない代物だ。癒し静める術は無い。出来るだけ痛まぬようにそっと庇うしかない。
 現実として傷がある訳ではないが、痛む左胸をそっと撫でさすった。もう抱えるしか無いのだと改めて実感させられ、そこからじわりと疼痛が広がる。
 ───今、自分は偽りの衣を着ている。
 人と慣れ合う事に苦痛を感じるのに、本音を、本性をさらけ出す事など出来ない。
 柔らかい物腰を装い、張り付いた微笑を浮かべている。それしか出来なかった。しかしそれは人を欺くには充分だったようだ。
 何事も無く、街中でも砂漠でも、だ。何事も無く過ごせている。
 その衣を着ているだけで、相手が薬使いでも見破られずに近付けるのだから。
 おかげでどれだけの奴に手をかけた事か。奴らは俺が近づいて自ら衣を剥ぎ取った時、初めて気がつくのだ。「こいつはあの毒使いか」と。
 情けない。元はそちらが仕掛けてきた闘いなのに。
 見破る事すら出来ないようでは、奴らに勝機はない。
 しかし俺にすら勝機はない。それは何故か? 毒使いとしての使命を果たし、生き残ったとしても、何人もの薬使いに手をかけて来た過去は拭えないからだ。
 つまり、人として堕落してしまっている。毒使いとしての栄光を手にしようと、人生としての勝機はとっくに無くしてしまっているのだ。
 そんな救いのない道を歩んできてしまった事に、笑いしか漏れてこなかった。

 

 どのくらい経っただろう。毒使い達が離ればなれになり、随分経った気がする。
 自分は砂漠の中に立っていた。
 容赦無く照りつける大陽に、乾いた空気。おまけに先ほど獣に襲いかかられ、腕には怪我を負っていた。傷自体は大したことは無いとは言え、出血は酷い。適当に布を切って巻き付けておいた。魔法使いの治癒能力は高いのですぐに治るだろう。
 しかし、この状況は否応にもあの時を思い出させた。
 奥底から痛みが───神経的なものだろう───這い上がってきて、吐き気を催す。だが、このところ何も口にしていないので、胃液しか出てこない。寸前で吐き気が収まり、口の中には酸っぱい匂いしか残らなかった。気持ちが悪いので唾を吐く。
 一息つくと、乾いた空気が鼻腔まで通り抜けた。酷い渇きに喉の奥を痛めながらも歩き出す。
 と、しばらくして人影が見えてきた。
 最初は陽炎によって揺らめいていたものの、その揺らぎが幾分か収まりかけた時に、はっとした。独特の流れが放たれている……『魔力片』だ。
 そしてその『魔力片』は、何か違ってはいたが、何度も遭遇してきたものと違うことは違うが……一度、感じ取ったことがある。
 ───こいつは薬使いだ。
 幸い、向こうはこちらに気付いていないのか、逃げようとしない。
 さて、どうやってふいをつくか。慣れきってしまった思考に浸る。
 やはりさり気なく近づいていってやろうか。いつもの様に“衣”を被って。それが一番の得策だ。
 決めると、再び歩み始める。徐々に近づいて来る。お互いに歩調は変えないまま、やがてギリギリの所ですれ違おうとしていた。 しかし。
「毒、使い?」
 ぼそりと呟かれた声は、やけにはっきりと聞き取れた。
 ───見破られた。
 振り返れば相手は固まっていた。相手にとっても、確信して言ったことではなかったのかもしれない。しかし、こちらが驚いた事によって完全に見破られた。
「毒使い、な」
 言葉を紡ぎかけたが、すぐに伸ばされた手によって口を塞がれる。
 相手の両手を掴み上げ、勢いに任せてそのまま地に伏せさせれば、フードが外れて長い髪が露になった。
「……女?」
 驚いたように目を見開いている。俺と同じような濃紺の髪が地に広がっていた。今まで相手にしてきた中に、女がいなかった訳じゃない。だが、何故かそのまま殺す事を躊躇った。
 見開いていた目に涙が溜まっていた。きっと前に殺した誰かと同じように、泣いて懇願するのだろう。「殺さないでくれ」と。もっとも前の時は、同情して手を離した所で襲いかかられ、結局殺す羽目になった。今回も同じだろうか。
 しかし、何か違う。
 顔をじっと見つめる。何故だ。何か、違う。
 ……ああ、違う。
 これは違う目だ。
 前に泣きながら懇願していた奴は、もがき、助けてくれと叫び、その目には“恐怖”しか浮かべていなかった。
 この女は違う。抵抗しようとせず、涙を溢れさせているものの、酷く穏やかな目をしているのだ。それは毒使い達と過ごしていた時に見た“慈愛”の目だ。呪われた運命を背負いながら、彼らはいつも優しき心を持っていた。その優しさが一番分かるのが目だったのだ。
 同じ目をしている。
 ……このままでは、どうにも、殺した所でいつもより何倍も後味が悪そうだ。
 息を詰まらせ、渇いた喉から声を出す。
「何か、言いたいことはあるか?」
 問えば、驚いたように目を見開いて何度も頷いた。
「いいか、抵抗はするな。もし襲いかかって来た所で、俺はいつでも、お前を殺せる」
 肘を使って相手の両腕を押さえつけながら、脅すように目の前に掌を持って来てバキバキと鳴らす。
「仲間に知らせようものなら、結果は同じだ。分かってるな?」
 先ほどから気配を探っているが、地に伏している女のもの以外に『魔力片』は感じられない。しかし魔法には、生きている気配どころか『魔力片』すら隠してしまう『隠蔽魔法』と言うものがある。万が一の事を考えて、だ。
 やはり怯えているのか、女は勢いよく頷いた。嘘はつくなよ、と、一睨みしてから腕を解放し、口から手を外す。
 ゆっくりと上体を起こした女は、見た限りでは、俺とさほど変わらない歳のようだった。
 濃紺の長い髪が地にまで広がっている。強すぎる陽を浴びても、光を取り込み、内から淡く色を浮かび上がらせていた。同色の瞳は、驚いていたように見えたが違う。見開いて俺を見回していた。
 突き刺さる視線に堪えられなくなって来た。何をそんなに見る必要があるのかが分からない。だが、こんな時は遠慮のない視線に嫌だと思うはずが、どこかで安心感すら覚えていた。奇妙な感覚だった。
 最近、俺以外の人間というものを見ていなかったせいかもしれない。しかしそれで片付けてしまうにはおかしい。この争いが始まって以来、俺は本能的に薬使いを拒絶しているはずだ。
 ───どこかで、知っている気がする。
 漠然と、そう思った事に驚く。やがて女が口を開いた。
「あなたは、あの時、交渉の時に、代表者に、殺されかけましたか」
「それがどうした」
「あなたは、自分の事を、『純粋な毒使いではない』と言った。そうよね」
「だから何だ」
「捨て子、だったのかしら」
「だから、何が言いた」
「答えて」
 言葉を遮って女が言う。怒っているわけではないが、その目は強い光を宿していた。内心で驚きながらも、表面には出さないように堪えた。
「……そのとおりだ」
「やっぱり……歳はいくつ?」
「分からないな」
「名前は?」
「名乗る必要など」
「私は、リオラ」
 断わらせる気が無いのか、間髪入れずに言い続ける。あまりに凝視してくるので居心地が悪く、視線を反らして一つ溜め息を吐き、仕方なしに名乗る。
「……エルヴァイン」
 名乗ってやれば、目の前の女は目に涙を溜め始めた。何を泣く必要があるのだろうか。考える間もなく距離が狭まり
「あ、ああ……会いたかった」
 ───何が起きたのか。
 気がつけば、首に抱きつかれていた。慌てて引きはがそうと肩に手を置きかけたところで、堪える様なくぐもった声───嗚咽が耳元で聞こえた。
 何が起きているのか。
 抱きつかれる直前の言葉。敵同士のはずなのに───『会いたかった』とは?
「どういうことだ」
「ああ……ごめんなさい」
 まだしゃくりあげながらも女は離れる。
「……きっと信じてはもらえないでしょうね。でも、どうか聞いて」
 ぐっと拳を握りしめ、目元を拭い、毅然とした態度をとった。
 そしてあの目で言ったのだ。
「貴方は、私の弟───私達は、生き別れの姉弟なのよ」
 紛れも無く、真っ直ぐな目で言った。

 

←8  Top  10→