第2章《獣狩り》

 

10.【虚偽の先は】

 

 毒使いが語ったことにクロムが酷く動揺して立ち上がる。
「なっ、に、を……。姉弟……? リオラと、か?」
 そしてふらふらと彼の前まで来ると膝をつく。
 信じられない───そう、クロムの声が吐き出される前に毒使いは代弁した。
「信じられないだろうな。何せ本人である俺ですら驚いた」
 腕組みをして悠然と構え語る様が、逆にそれが真実であることを強調しているようだった。
 だが確かに毒使いが向かって来た時、クロムは剣を抜くのを躊躇った。一瞬だが、その髪の色。瞳の色。それらに───愛しき妻の面影を見たのだ。ただの偶然、気の迷いだと思っていたのだが、まさか弟だとは。
 にわかには信じられない。毒使いが嘘を言っている可能性だって充分あるのだ。しかし、クロムの獣狩り師としての感覚は言っている。『血の繋がりがある』と。レリックから感じられた気配とはまた違う。きっとこれが魔法の気配『魔力片』というやつだ。集中して感覚を研ぎ澄ませれば澄ませるほど、妻にも、そして娘のセリアとも……どこか似通った部分があることが感じ取れてしまう。
 しかしクロムは気付く。セリアはあの時、こう叫ばなかったか?

 ───こいつがっ……こいつが母さんを殺したんだぁぁぁ!───

 絶叫が脳裏に蘇る。確かに、娘は、目の前にいるこの男を見て言ったのだ。
 妻を殺したのは、こいつだと。
 ───なのに、今、こいつは『姉弟』だと語らなかったか?
 消化しきれない思考がぐるぐると、ただの文字として頭の中を廻る。目を見開いて男へを顔を向けながら、クロムは文字を一つずつ理解していった。
 文字は脳裏へと染み込むように消えていくと、頭の中は真っ白になる。だがすぐに、真っ赤に染まり始めた。
 言葉の意味を理解して、沸き上がって来たのは“怒り”だった。
「おめえっ……リオラを……!」
 怒りのままに毒使いの胸ぐらを掴んで立ち上がらせる。
「殺したのか!? リオラを!」
「ああ」
 毒使いはぴくりとも表情を動かさず
「殺した」
 ───次の瞬間、打撃音と共に毒使いは地に伏した。
 始めは地面を見ていたものの、そのうち淀んだ目でクロムを見上げる。クロムが彼を殴ったのだ。それでも再度殴り掛からないのは、彼自身、呆然としてしまったからだ。瞬間的に怒りが沸騰して、気が付けば殴っていた。まだ怒りは収まらないのだろう。クロムは抑えるように拳を振るわせ、毒使いを見下ろしていた。
 一連の出来事を遠くから眺めていた獣狩り師達は、普段は穏やかであるはずのクロムの行動を見て驚き、何事かと立ちあがった。幸いだったのは、クロムの娘であるセリアが気絶していて、この出来事を見ていなかったことだ。
 沈黙が辺りを包んだ。その中でレリックは自然に立ち上がると「大丈夫か?」と毒使いに向かって近づいた。毒使いは無言でクロムを見据える。毒使いに見据えられたクロムは、そこではっとして謝るのだった。
「……悪ぃ……でも」
 掠れた声で呟く。軽い罪悪感から謝罪しても、押しこめている怒りは収まらない。震える拳に更に力を入れた。
「無理も無い」
 殴られた張本人は口元を伝ってきた血を拭い、何事も無かったかのように言い放ってから座り直した。
 その言葉が、余計にクロムを責め立てる───悪いのは、一体どっちだ?
 と、別の声が聞こえてきた。
「エル、お前は、人を殺したのか?」
 それは村の長であるジグオールの声であり、毒使いは振り返った。
「殺したのか?」
 弱々しい呟きに、きっと信じられない様な顔をしているか、驚いているかのどちらかだと思った。だが毒使いの予想に反し、顔つきは非常に厳しいものだった。
「殺したんだな?」
 まるで今すぐ肯定しろと言わんばかりに目を見開き、眉間にはしわを寄せている。その顔が問う度に表情は徐々に変わっていく。
 相手が何を思っているのかは知らないが、毒使いは直感的に恐怖を感じた。
 答えられない毒使いへの問いは止まらず、ジグオールは最後に、にぃ、という笑みを口元に───
「止めておけ。お前は断罪者ではないだろう」
 ───浮かべている様に見えたその時、レリックに止められた。
 一瞬、僅かに肩を震わせたかと思うと、ジグオールはレリックの方へ振り返った。
「……何を、おっしゃっているのですか?」
「そう責めるな、と言う事だ」
 腕組みをしたままジグオールを見やり、レリックは続けた。
「毒使いは命の重さも、軽さも知ってるはずだ」
 そうだな? と問いかけてやれば、毒使いは無言のままだ。
「重さは分かりますが、軽さとは?」
「誰かにとって大切な者でも、またある誰かにとっては生かす価値もない者となる」
 レリックは僅かに空を仰ぎ見た。
「人と獣だって同じだ。人にとって獣は恐怖の対象で殺すしか無く、獣にとって人は自分達を追い立てる、憎く、腹を満たす獲物でしかない。激情を吐き出す以外に、その者にとって必要とされない命は軽いものでしかない」
 ごく当たり前といった感じで言い放つ。
 それは長年、人と獣の両者から軽蔑されてきたからこそ見えてくる視点なのかもしれない。命の扱いの差を“軽さ”と見ることは、そう無いだろう。
「とにかく」
 レリックは視線を毒使いへと向ける。
「そこから先の“真相”を話さないか?」
「真相?」
 不思議そうにクロムが口にする。そんな彼を見て一言。
「とりあえず、座ったらどうだ」
「いや座るけど、よ……どういうことだ?」
「これでも長生きしてるもんでね。相手の動きや表情を見ていれば、何事か隠しているくらいは分かる」
 レリックは肩をすくめてみせる。
「まさか、今語ったことが全てと言う訳ではないだろう。まだ、何かあるな?」
 問いかけるように毒使いに言うと、彼は目を伏せた。
「あるんだな?」
「……殺してくれと、言われた」
 溜め息と共に吐き出した言葉は、クロムを再び驚かせるには充分だった。逆にレリックは、最初から分かっていたかのように動揺を見せない。
「な、何で、リオラが……」
「知っていた。全てを」
 毒使いは何も無い空間を見つめる。それは過去を思い出している証拠なのかもしれない。どこか遠いものを見ているが、目には力があったのだ。
「知っていた」
 次の瞬間にははっとした表情を浮かべ、何かを見つけたように声を張り上げた。
「……そうだ、知っていた。あの女は知っていたんだ!」
 驚愕。その言葉がぴったりとくるだろう。毒使いは思わず立ち上がり、自らの手を見つめてから頭を抱え込む。
「俺は忘れていた!? どうして忘れていたんだ? これは……っ」
 しかし彼は自らの喉を抑えると、急に苦しそうに呼吸を始めた。額に脂汗が浮き、顔を伝っていく。
「かはっ……あ、ぐっ」
 その身体が急に傾いていく。
 突然の事態に誰もが呆気にとられ、毒使いの身体は支えられることも無く地面へと倒れていく。身体は痙攣していたが、それもすぐに止み、力が抜けていく。
 そんな彼の様子を見て目を見開くクロム。何が起きているのか分からない。咄嗟に毒使いへと駆け寄ろうとしたが、動いただけで指先に痺れが走ったように感じた。
 レリックは即座に毒使いへと近づくと、彼の具合を確かめる。
「ショック状態……麻痺か?」
 頬、首、手首に手を当てていくと同時に、僅かに掌に魔力を滲ませ、体内に異物が無いかを調べる。
「生きてはいる。……毒だな」
 確信した物言いにクロムは首を傾げる。その間にレリックは魔力を滲ませた手で毒使いの胸に手を当て、青く淡い光を放つ。応急処置ではあったが、魔力を流し込むことで毒の効力を薄めたのだ。
「毒って、まさか自分でやったってことか?」
「いいや『魔力片』の質が違う。それに様子を見る限り、あのタイミングで自害するのもおかしいだろう。毒使いは『忘れていた』と言っていたんだ」
 レリックは毒使いの一連の豹変ぶりを思い返し、僅かに眉を寄せる。何かに勘付くと一気に眼光が鋭くなり、横にいた長を横目で見つめると振り返って、長の眼前まで顔を近付けて問う。
「今、何をした?」
「何もしておりませんが」
「そろそろ辞めたらどうだ」
「何をおっしゃっているのですか?」
 長は怯えた表情を浮かべているが、声音はいたって普通だった───それが、演技であることを示している。動揺しているなら、その震えは声にも現れるだろう。
 相手がシラを切る限り、このことは解決しない。
 埒が明かないと判断したレリックは、長を探る様な目で見ながら後ろに投げかける。
「クロム。悪いが、毒使いを遠くへ運んでやってくれ。……クロム?」
 後ろを振り返ると、クロムは地面へと膝をつき、痙攣する自らの腕を掴んで目を見開いていた。その光景にレリックは僅かに息を飲むと、再び長へと向き直る。
「今すぐ、止めろ」
「だから、さっきから何をおっしゃってるのですか?」
「止めろと言っているのが聞こえなかったか?」
 静かに、威圧する様に。レリックはゆっくりと言葉を吐き出した。それなりの魔法使いに睨まれれば、その身の内から滲み出る『魔力片』に誰だって怯える。だが、レリックの場合は少々“異質”だった。
 声音は変わらないし、睨み付ける様な表情はしていない。ただじっと相手を“見ている”のだ。それ以上に異質なのは『魔力片』。何せ───悪魔と称される者だ───通常の魔法使いとは、比べ物にならないほどの魔力を身に秘めている。
 ごくりと唾を飲み込み、少々身じろぎした長に向かって突き詰める。
「止めろ」
「私には、何のことだか」
「もっと直接的に言おうか。演技を辞めろ。それと、まき散らすのを止めろ」
「演技とは? まき散らすとは、一体何のことをおっしゃっているのですか?」
 長はどこか薄笑いを浮かべている。レリックは見据え続けているが、それ以上、引く気配はない。
 その背後から獣狩り師達の声が聞こえてきた。
「ちょっと、大将、一体どうし……」
「来るな! 巻き、込まれるぞ」
 近づいて来る仲間をクロムが止め、ふらふらとしながらも立ち上がると、毒使いを引きずるようにして、レリックから離れだした。
「はあ?」
 仲間の一人であるルイドは不思議そうな声を上げるが、ロウははっとして舌打ちをした。
「嘘だろ……畜生、似てやがる」
「なあ、一体が?」
「あの野郎、とんでもねえバカ力隠してやがった……『殺気』と、ついでに、こりゃあ、魔法の気配ってやつか? 似てるんだよ。毒使いに」
 そこまで言い終えて、ロウとルイドはクロムを手伝おうと走り出す。
「バカ野郎、テメエは解毒薬の準備しとけ!」
 ロウがルイドに向かって怒鳴る。怒鳴られた方は何事かと困惑する様子を見せ、ロウはさらにもう一度怒鳴りつけた。
「よく嗅ぎ取りやがれ! 匂いがすんだよ。毒の匂いがな!」
 足を引きずるクロムと、引きずられている毒使いを一度見て、レリックはまた長へと向き直った。
「『記憶操作』ね。随分と手の込んだことをしているじゃないか。何をそんなに隠したがっている?」
「さっきから、何をおっしゃっているのですか。賢者様。私には全く」
「ここに来た時からおかしいと思っていたんだ。村から魔力が全く感じられない」
「それが、なにか?」
「まだ証拠が必要か? 普通の住民と言えど、魔法使いほど強力ではないが、僅かに『魔力片』を帯びているものだ。本来、魔力と言うものは、循環していて“どこにでも溢れているもの”だからな。先ほど村人が見えたが、何も感じないと言うのは、おかしい」
 言い切ったレリックに対し、長はやはり口元を歪めながら何のことかさっぱりだと言うように肩を竦める。
「賢者様、本当にどうなされたのですか? 私は」
「往生際が悪いな」
 長の言葉を遮り、レリックははっきりと言い放つ。
「いい加減にシラを切るのは止めたらどうだ。薬使い・・・
 それはちょうど、クロム、そして彼を手伝っていた獣狩り師達の耳にもはっきりと聞き取れた。
「ちょっと、待て……レリッ、ク?」
 荒くなった呼吸を抑え、おぼつかない動作で振り返るクロム。この魔法使いが言ったのは間違いなく、あの一族の名前だ。
 クロムの戸惑った声に答えずに、レリックは長を見据え続ける。
「どうやって隠したのか、当ててみようか? 『隠蔽魔法』だな?」
「……いやはや、やはり貴方は丈夫だ。この中でも平気で動けるなんて」
 観念したとでも言うような素振りで、長は両手を挙げた。
「その通り。見事ですよ。結構な毒を仕込んだつもりだったんだがなぁ」
 すると長は、高らかに笑い出した。
 それは、先ほどまでレリックや獣狩り師達に向かって来た毒使いと等しく───
「“化け物”には効いたが、悪魔にまでは効かなかったってことか」
 柔和な笑みが歪んだ笑みへと変わる。穏やかに見えた目は鋭くなる。
 丁寧な素振りは無くなっていた。
「本当に、人間離れしてる」
 そうして喉の奥で笑う様は、先ほどと同じ人物かと言う程に豹変していた。
「ははっ、運が悪い。まさか賢者様ほどの方が、助っ人に来るとは思いませんでしたよ」
 口調こそ丁寧ではあるが、随分と横柄な態度だ。片手を自らの胸へ、もう片手を横へ持ってくると、道化の様な仕草で語り出す。
「爪が甘かったってことか。貴方の言う通りですよ。それにしたって凄い。『隠蔽魔法』の中でも、上級のものハイディアを数人がかりでかけたのに……貴方の魔力は、それを上回ってる」
「な、なあ。なに、言ってんだ……?」
 並べ立てられる言葉に、クロムがついていけずに疑問を上げる。
「魔法の中でもな。『隠蔽魔法』と言って『魔力片』すら隠してしまうものがある。その強さによっては、大概の魔法使いさえ欺けるんだ。この長は、それを使って自らが魔法使いであることを隠していた。クロム。ここまでは、分かるな?」
「あ、ああ……それに、薬使いって、リオラと……」
「紛れも無く、その薬使いだよ。他には聞いたことが無いからな」
 レリックは長の方を向いたまま、クロムへと近づく。左手に青い光を灯し、クロムの腕を掴むと、それは一層光り輝く。
「ん? あれ、痺れが……」
「気休め程度だが、解毒をしておいた」
 そう言って青い光を収めると、クロムの顔をじっと見た。
「クロム。毒使いを連れて、出来るだけここから離れろ」
 何故かと問う前に、レリックはクロムの腕を放して後ろへと押しやる。
「向こうは随分と正体を隠したがっていたみたいだ。それが正体がばれた以上、ただで済ます訳が無いだろう?」
「その通り。さすが賢者様。察しましたか」
「考えれば分かることだ。それにさっきから『魔力片』……いいや、『殺気』が強くなっているぞ? もう隠す気すらないようだな」
 僅かに笑いながら言ってやれば、相手もニヤリと笑い返す。傍から見れば異質なやりとりだ。そんな中でレリックは長へ取り引きを持ちかける。
「さて、ここで選択肢が最低でも二つある。このまま私と対立して、無理矢理口を割らせようか。それとも平和的解決でも目指して、自分から話すか?」
 指折り数えると、長は首を横に振る。
「いいえ、どちらでもありません」
「答えは?」
「貴方を見せしめとして、消してみせましょう」
 そして、両手を広げて構えた。
「大胆な思いつきだ。私を消してみせれば、良い箔が付くと言う訳か」
 対し、レリックは嘲笑うように吐き捨てる。
「ええ。貴方程の方を葬れば、どれだけ民の“励み”になるか」
「励み、か。どういうことだろうな?」
「怖いんですよ」
 ジグオールは唐突に、そう口にした。しかしその態度と状況からでは、想像のつかない言葉だった。
「怖いんです。貴方には分からないでしょう。自分達とは違う“異物”、それも、強力な力を持つものがいるということが、どれだけ恐ろしいことなのか」
「恐怖ね。私からしてみれば、恐怖を持つ者こそが、恐ろしいが」
「怯えてる者が怖いと?」
「ああ。恐怖を持ち得る人間は、その恐怖が極限になると、それを打ち消す為にどんなことだってする……本当に、どんなことでもね」
 微かに息をつきながら、肩を竦め、お手上げといった感じで両手を挙げる。そのまま右腕を前に持って来ると、レリックはジグオールを指差した。
「それで? 戯事はこれで終わりか?」
「……恐れを顧みずに話している者に向かって、戯事とは酷い。賢者には良心というものはないのですか?」
「私も、いつまでも嘘と言葉遊びに付き合ってやるほど、心は広くないんでね。多少苛ついているかもな」
 言いながら、レリックは左手に雷の力を行き渡らせた。腕にまとわりついた力が紫電の光をあげる。色々と話している間に、魔法を発動させる直前まで準備したのだ。
「さあ、もう一度言うぞ。自分からその“虚偽の先”を話すか? それとも強制的に口を割らせようか?」
「話すつもりは、ありません」
「ならば決まりだな」
 レリックが左腕を持ち上げた。

 

 ───ああ、あの野郎。本当に“偽善者”だった……。
 毒使いはぼんやりと考えた。彼の左側には獣狩り師のクロムがいて、身体を支えながら先へと進んでいる。ろくに動けない彼を支えるのは大変だろうが、それでも放す様子は見せずに、懸命に進んでいる。
 その時、後方で轟音が鳴り、閃光が辺りを一瞬だけ白く染めた。遅れて爆風が砂と土を巻き上げ、レリックらがいた場所から押し寄せる。
「でぇぇぇ! レ、レリックの奴、ちょっくら、やりすぎじゃねぇか……!?」
 自分の左耳を抑えながら、クロムが後ろを振り返る。身体能力と同様に聴力も獣並みに発達している獣狩り師にとっては、凄まじいものだったのだろう。
「た、大将、大丈夫か……?」
 同じように両耳を押さえながらロウが近づいてきた。
「なんとかな。解毒もしてもらったからな、動く分には問題ねえよ。おめぇこそ、随分血ぃ流した割に元気だなあ」
 言いながら、証明してみせるかのように空いた片腕を振り回している。ホッとしたような表情を一瞬だけ浮かべ、クロムへ近づこうとしたロウだが、はっとしたように身構える。
「……っと」
「どうした?」
「そいつ、何もしてこねえだろうな」
 険しい目つきは、毒使いへと向けられている。言われてみれば確かにそうだ。クロムが駆けつけるまで、この血の気の多い獣狩り師と毒使いは争っていたのだ。
 警戒態勢をとるロウに、クロムは笑いながら溜め息をついてみせた。
「何かする気なら、とっくにしてると俺ぁ思うぞ?」
 そしてゆっくりと毒使いを地面へ座らせた。
「大丈夫か?」
「…………何故、手を」
「さあなぁ。レリックに離れとけって言われたしな」
「違うっ、俺が言っているのは!」
 毒使いは呼吸を荒くしながら、クロムへ掴み掛かる。
「仇を庇うのか! 俺が殺したんたぞ。お前の大切な奴をな!」
「……大人しくしといた方がいいんじゃねえか? 暴れりゃ、せっかくの処置も意味ねえぞ」
「この……っ、偽善者が!」
 毒使いが歯噛みする音が聞こえた。掴み掛かったまま、クロムを下から睨みつける。その目はレリックと相対していた時と同じ目だ。底から沸き上がる感情を抑えきれずに、目から殺気を放っている。そして口元には歪んだ笑みを浮かべ、不規則に笑い声をあげながら、どこか愉快そうに語る。
「善人ぶってればいいと思うな。仇を助けるだと? そんなことをしてどうするつもりだ。結局、お前もあいつと同じだ。懐の広さを示したいだけなんだろ?」
 はは、と毒使いの口から笑いが漏れた。だが、クロムはそれを見下ろすだけで、何も言わない。
「なっ……テメェ! 大将は」
「ロウ。黙っとけ」
 クロムはただ静かに仲間を止める。毒使いに掴みかかろうとしていたロウは、何かを言いたげに拳を握りめ、後ずさった。それはクロムの意志を汲み取っての行動だろうか。
「お前は、俺の言葉を信用したのか? それでいて、助けると?」
「ああ」
「どこまで偽善者ぶるつもりだ。いいか、もう一度言ってやる。俺が、お前の妻を殺したんだぞ」
「らしいな」
「お前の子供にも言ってやった」
 言い聞かせるような口調で吐き出せば、クロムがわずかに息を飲む。
「あれは正直だ。俺が仇だと分かって、憎くてたまらないから、俺を殺しかけた」
「どうだかな。なんだかわかんねぇけど、幻を見せられてたとか言ってたぞ。あの魔法使いさんはよ」
 そして親指を使って、自分の後方にいるであろうレリックを指す。
「そいつの言っていることが、嘘だと思わないのか」
「俺ぁ、魔法のことに関しちゃ、さーっぱりだからよ。嘘だとしてもわかんねぇ」
 あっさりとそう返しながら、クロムは自分の頬を掻く。一瞬、呆気にとられた毒使いだが、すぐに眼光を鋭くして問う。
「仮に、幻を見せられていたにしても……俺が、あの女を殺した。それに変わりはないんだ」
「……何が言いてぇ?」
 毒使いの言った言葉に、何か含まれているものを感じ取ったのか。クロムが先ほどよりも険しい顔をして問えばニヤリと口角を上げ、焦点の合わない眼を細める。そして軽く、くつくつと笑い声を上げると、それをぴたりと止めて同じ表情のまま言う。
「俺を殺せ」
 クロムは目を見開くしかなかった。

 

「さすがに賢者様相手だと、きついですね」
 そう言って柔和に笑う長───薬使い───は、殺気を全く隠そうともしない。
「それにしても、一撃で『隠蔽魔法』を破りますか」
 そして長は自分の背後をちらりと見る。そこにあるのは、相変わらずの村と───先ほどまでは無かったはずの杭、いいや、焼け焦げた杖が地面に何本か、規則的に突き立っている。そして杖には、杖自身の姿を隠す為に『隠蔽魔法』の力が施された符らしきものが貼られている。今は焼けてしまっているが。杖が規則的に立った地面にあるのは、媒介を消されたことによって徐々に光を失いつつある円と線と文字。それらは、村全体を囲む様に描かれている。
 これこそが『隠蔽魔法』の全貌だった。
「さすがに、それなりに力がいるようだったけれどな」
 左腕をひらひらと動かしながら答えるレリックは、平然としていた。先ほどは雷の力を宿らせていた腕だったが、少しばかり名残が残っているらしい。時々、紫電が上がっている。
 『隠蔽魔法』を破る方法はいたって簡単だ。媒介のもの───今回の場合は杖だろう───を破壊してしまえばいい。ただ、今回は『隠蔽魔法』自体がかなり強力なもので、媒介の位置を特定するのが難しかった。それを考慮してか、レリックは『隠蔽魔法』を一気に破る為に巨大な雷を出したのだ。もちろん村人に被害が出ないように加減はしてあるのだが。
「それなりに、ですか。貴方からしてみれば、大したものでは無いのでしょうね」
 皮肉気に言う長。道化じみているそれは、相手を苛立たせる為の行動だろうか。しかしレリックは、そんな彼を見据えるだけだった。どこか老成しているレリックのことだ。先ほど「多少苛ついている」とは言っていたが、挑発に乗るような性分ではないだろう。相手のそれが作戦だったとしたら、無意味な行動でしかない。
「魔力だけは有り余っているんでね。普通の魔法使いの何倍の魔力があるのか、私にも分からないほどだ」
 むしろレリックは、どこか哀れみを含ませた表情のままだ。睨み付けている訳ではないのに、その眼に強い光を携えて彼を見ていた。誰にも分からなかったが、真相を見極めようとしている故の顔つきだ。
「恐ろしいですね」
「私が、か? 当たり前だろう。私を誰だと思っている」
 穏やかな笑みを浮かべながら、右手を自分の胸へと添える。
「悪魔。今まで何度そう呼ばれたことか」
 薄く笑っているその顔は、紫の瞳と相まって妖しげに見えた。
 ただ『妖艶』というのとは違う。美しくはあるが、それは人を死地へ誘う死神の様に儚気であり、見ただけで背筋が凍えるような『死』の匂いのする笑みだ。
 ───私は、いつでもお前を殺せる。
 気配だけでそう語っているような気がするのだ。長は冷や汗が伝うのを感じていた。
「悪魔、ですか。伝承にある容姿を持っているから、と?」
「それだけではない。分からないか?」
 その一言と共に、レリックから溢れ出していた『魔力片』の気配が一気に変わった。
 濃度が濃くなった。余裕の笑みを浮かべているその姿から察することが出来るのは、それがわざと威力を上げた訳ではないということだ。
「そろそろ本気でかかってもいいんだが」
 それは今まで抑えていたものを一気に解放したことを物語っている。ただそこにいるだけで、レリックが発している『魔力片』の余波を受けた身体が悲鳴を上げ始めていた。肌を突く痛み。震える足。だが長はそれでも口を割るつもりはないらしく、両手を構えて詠唱の体制をとった。
「“楝獄より伝わりし業火を、その身に浴びせ、焦がし、熱き痛みを”」
 それは上級域とされる炎魔法の呪文だ。詠唱中に動かす手の軌道に沿って、赤い炎が踊る。
「“消えることのない熱と共に、融け墜ちろ”収束ラ・アール!」
 両手をレリックに向けるように構えた。
発火フィア!」
 詠唱が終わると同時に、長の掌からレリックに向かって一直線に炎が伸びる。レリックは僅かに目を見開いて、向かってくる炎を見つめて、逃れるように片腕を自らと炎の間に割り込ませる。
 ───そして炎はレリックへと激突し、一気にその勢いを増して燃え上がった。
 燃え盛る炎の柱の中に人影が見えた。人影はしばらくもがいていたかと思うと、そのまま地面へと倒れ伏し、動かなくなった。
「……は」
 少ししてから、長の口から空気が漏れ出す。
「は、はは」
 それはやがて連続的に吐き出され始め、まるで浮かれた子供のように歓喜に満ちた声をあげる。
「はは、ははははははは! やった、やったぞ!  倒してやった! 倒してやったぞ!」
 ひゃはは、と尚も笑い声を上げながら、喜々としてまだ燃え盛っている人影を指差す。
「どうだ、何が悪魔だ! こうも簡単に俺に倒されちまったじゃないか!」
 それはレリックの遥か後ろにいた獣狩り師達に向かって吐き出された言葉だった。ことの成り行きを見守っていたルエルやルイドは動くことが出来ずにいる。
「な、う、嘘だろ!?」
「残念だったなぁ、役に立たない助っ人で! 悪魔なんて大嘘なんじゃないかぁ?」
 調子に乗り始めた長の、中傷する声だけが響く。獣狩り師達はその物言いに恐ろしさを感じて後ずさるしかなかった。
「このまま、お前達も焼き殺してやろうか?」
 長はいつでも次の詠唱が出来るようにと腕を構えながら、じりじりと間合いを詰めようと動く。クロムと毒使いのやりとりを見守っていたロウも、危険を察知して静かに短剣を抜くが、あんな遠距離からでも仕掛けられる魔法だ。近づいて切り掛かろうとしたところで、焼かれて終わりだろう。
「あれで終わりとは……大したことない奴だ! すごい『魔力片』だから、本当に悪魔かと思ったが、とんだ詐欺師だったな! お前らは騙されたんだ!」
「くっ……」
 ルエルとルイドもそれぞれの武器を構える。意味がないことだと分かっていても、長からおかしな気配が感じられたため、構えずにはいられなかったのだ。
「さあ、どうする。許しを請うか? まあ、そんなことをしたところで意味がないけどなあ!」
 そう言いつつ、構えた腕を動かし始めた。同時に先ほどと同じ呪文が紡がれる。
「“楝獄より伝わりし業火を その身に浴びせ 焦がし 熱き痛みを”」
 まだ随分と距離が離れているのにも関わらず、熱波が押し寄せた。それに危険を感じ、獣狩り師達は間合いを離そうと動き始めるが、その分だけ長は追ってくる。それも笑いながら、だ。この状況を楽しんでいる。
「“消えることのない熱と共に、融け墜ち”……」
 だが、詠唱はそこで終わった。
 何者かが長の首元に後ろから触れた。同時に聞こえてくるのは冷静な声。
「そこで止めてもらおうか」
 すると長の手元に現れていたはずの炎が一気にかき消された。長は何事かと後ろを振り返ろうとするが、そんなことをしなくとも分かる。
 レリックが、そこにいた。
「な……っ、ど、うして……!」
「残念だったな。倒せてなくて」
 小馬鹿にするように言葉を吐き出すと同時に、首を押さえたまま足を薙ぎ払った。長はとっさに対応出来ずに、重力に従って地面へ倒れ伏す。
「う、ぐっ!」
「で? 誰が詐欺師だって?」
 そのまま長の身体全体を押さえ込むとレリックが問う。だが長は動揺していて、それに答えることなど出来なかった。
「な、ぜ、生きている……!?」
「よく見てみろ。誰も焼かれてなどいない」
 言われて前方を見ると、先ほど炎の柱があがっていた場所には焼け焦げた地面と水たまりがあるだけだった。
「魔法で、逃げた……のか?」
「詳しい説明が必要か? 最初は焼かれたように幻影を見せただけで防護壁を張り、その後に炎を消した。後はある程度『魔力片』を抑え込んで、お前に気づかれないように背後に回るだけだ。注意力などすぐに散ったようだったからな。気配を消さずとも簡単に近づけそうだったぞ」
「……詠唱なぞ、いつ……」
「観察力がないな。私が魔法を発動させる為に詠唱した事があったか?」
 言われてみれば、レリックはあの『隠蔽魔法』を破る精霊魔法を発動させる時も、解毒を施す時も、魔法を発動させる時に絶対必要とされる呪文の詠唱を一度もしていない。それに気がついて長はさっと顔を青くさせた。
「『思想詠唱インバースト』!? 俺が使ったのは上級魔法ハイディアだぞ、それを掻き消すだけの……」
「だから言っただろう? 私は『悪魔』だって」
 レリックは長を押さえつける力を強くする。逃げられないように関節を決めている辺りからして、手慣れている感じが伺える。
  長が驚くのも無理はなかった。レリックが実行した『詠唱なしでの魔法発動』。詠唱を口にせず思想のみで行い、短時間で発動させる『思想詠唱インバースト』と呼ばれる発動方法なのだが、それは人間では中級魔法のレベルまでしか扱えないとされている。それ以上となると、扱えるのは地上最強の生物とされる竜ぐらいだ。
 仮に人間が中級魔法以上のレベルで『思想詠唱インバースト』を使ったとしても、人間の能力では限界域を超えているのだ。発動する事は滅多にない。仮に成功したとしても、魔法の処理についていけずに脳神経が焼け、死に至る。運が良くても廃人と化すだろう。
 それは竜に等しい力を持つと噂されている『賢者』しても同じ。だがレリックはそれを平然と行っていた。
「い、いやしかし、それにしても」
「たった今、お前の魔法を打ち消したのは誰だと思っている」
 その言葉に長は背筋が凍り付いた。確かに止めたのはレリックだ。詠唱中の上級魔法を、呪文も無しに。
 それならば常人でも出来る範囲内のことだ。腕の型を崩すなり、詠唱を止めさせるだけでいい。もしくは相手に触れ、魔法の効力を掻き消す『消滅呪文』というものを詠唱すれば、それだけで形成された魔法は崩されて発動することなどない。
 だが、レリックがやったのはどちらでもない。魔法に割り込んでみせたのだ。
 首というのは脊髄の通る場所だ。脳からの信号を身体の各場所へと伝達し、動かす為に重要な器官である。
 実は魔法の発動も根本的な所を見ると身体を動かすのと同じなのである。脳からの信号で魔力を紡ぎ身体へと巡らせ、それが魔法の発動形態を決めるプロセス───詠唱───によって初めて形となるのだ。
 レリックの行動は端からすれば首元に手を当てただけにしか見えないだろう。だが実際はそれほど単純なものではない。掌を通して自らの魔力を長へと注ぎ込む事によって、魔法発動の前に止めたのだ。長が魔力を張り巡らせる前に防ぐ───要は川の水を塞き止める為の“堤防”“板”の役割を、レリックが魔力によって成している訳である。
 レリックが言いたい事……つまり、わざわざ他人の魔法に割り込むというただでさえ難しいことをし、詠唱が必要なはずの『消滅呪文』で消して見せたという事実だ。何故そんな回りくどい事をするのか、理由は単純だ。
 語らずして力の違いを見せつける、それだけの為である。
 常識を覆す存在が目の前にいる。長を震え上がらせるのには、それだけで充分だった。
「う……あ、わ……あ、ああ……!」
「お前が何を相手にしているのか、やっと実感が湧いたか?」
 紫の眼で見下ろす姿は、まるで肉食獣そのものだ。相手は冷静な判断力など失っていて、もがくことしか出来ずにいる。無駄な抵抗を繰り返すだけの獲物をどうやって嬲り殺して捕食してやろうかと考え、舌舐めずりをするだけの余裕がある顔を浮かべているようにさえ見える。
「それとな。ずっと気になっていたが、面白いことが分かったぞ。お前は一体何人を贄にしてきたんだ?」
「……くっ、何を」
「隠そうとしても無駄だ。『隠蔽魔法』も既に破ったんだ。今まで押さえ込まれていた『魔力片』が流れ出してるのは分かるだろう? それも相当な量が」
「チッ、それを破っただけで調子に」
「調子に乗っているって? それはどっちだ。相当な数の『贄』の魔力を喰って力を溜め込んでいたつもりなんだろうが、隠すのが下手過ぎだな。おまけに、お前は自分で協力者がいることも吐いていたぞ。『上級のものを数人がかりでかけた』とな。“彼の者と縁を結びし者 我が命に従い”……」
 言いながらレリックは空いていた右手を動かす。
「“手の上で踊れ”」
 言いながら、村の方へ向かって指を鳴らす動作を見せたかと思うと、村のいくつかの家屋から何かが引っ張られるかのように飛び出してきた。
 それは人だった。数にして五人ほど。飛び出した形のまま宙を飛ばされていたかと思うと、レリックは右手を薙ぎ払うように動かす。するとそれに連動して人影たちも急速に斜め下へと滑空し、そのまま地面へ叩き付けられた。
「悪いな、手荒で」
 叩き付けられて呻いている方へ向かって、しれっとした顔で言うレリック。レリックがそちらに気をとられている隙に、長は基本魔法を発動させようとしたが、現れるはずの火球は直前で掻き消える。
「往生際が悪すぎる。いい加減にしたらどうだ」
 まるで底冷えするほど冷たい声。上からの言葉に長はギリリと音を立てて歯噛みした。またも消滅呪文で消されたのだ。
「く……この……お前さえ、お前さえ来なければ……!」
「『全て上手くいったのに』か?」
 レリックは添えていた手に僅かに力を込める。
「貧欲なまでに幾人もの贄を喰らい、乗っ取り……別の贄を仕立て上げ、自分の思惑通りに事を運ぼうとする執念は、見上げたものだがな。そうして生きるものとして犯してはならない領域にまでいくと、人はまともな判断が下せなくなる。つまり“堕ちる”んだ」
 レリックの手元に黄色い光が集まり始めた。首元に妙な暑さを感じた長は、逃げようと必死に身じろぎする。しかしそれも無駄な抵抗でしかない。
「そこらの獣より知識を持っている人間だ。堕ちて、ありのままの本能に従って生きていくことしか出来なくなったとしても、本能を突き動かすために必要な知恵は回る。そうなれば獣よりタチが悪い。お前は獣よりも確実にタチの悪い“化け物”になっているかもな……ダイン」
「な、名前を……」
「ああ、悪い。少しばかり読み取った。しかし、お前は覚えていないのか? 前に会った事がある」
「なん、だと?」
「私よりも若いはずなのに、耄碌してきているのか? それとも、移し替える時にでも、一部の記憶を失ったか?」
 光はやがて収束し、レリックはその光を長の首に押し込んだ。光が完全に体内へと消えた事を確認すると、そっと長の上から退く。長は地に伏せた状態のまま動けずに、レリックの姿を目で追う。
「……まあ、その辺りの詮索は後にしようか。私が解くまで動けないからな。全て吐いてもらおう」
 そうして口元に微笑を浮かべるレリックだが、その姿は今の長にとって恐怖そのものでしかない。
「今は、あちらをどうにかしないとな」

 

 響いたのは、二度目の打撃音。
 毒使いは頬に感じた衝撃を受け流さず、そのまま甘んじて受け止めた……いや、驚いたのだろうか。少しばかり呆気にとられたような顔をしている。その視線の先には、拳を握りしめたままのクロムがいる。
「馬鹿にすんじゃねぇ。誰が、死にたがりに手を貸すか」
 震える拳にさらに力を込める。
「どうして」
 ギリリ、という歯軋りが聞こえる。俯いたままのクロムは尚も拳を震わせ、地面に座り込んでしまった毒使いの元へと歩み始める。
「まだ生きてんじゃねぇか……まだ、何も聞いてねえしよ……なのに」
 毒使いの前まで来ると、クロムは拳を真上へと振り上げた。

「なんで、てめぇは死にたがってんだ!」

 鈍い音が響いた。
 拳が向かった先は毒使いの足下の地面だった。
 クロムの声は辺りの空気を震わせ、打ち付けた拳は地面へと怒りを昇華させるかのようにめり込んでいる。
「結局は、てめぇが単なる死にたがりなだけじゃねぇか……リオラを殺した、それが事実だったとしてもだ! 俺を煽る為に、わざとその名前を出すんじゃねぇ!」
 再び毒使いの胸ぐらを掴み、クロムは相手の目を見た。真正面から視線を受けた毒使いは、呆気にとられたような顔をしていたかと思うと、眉根を寄せた。
「てめぇは卑怯だ。逃げたいだけなんだろ。全部、何もかも、放っちまってな! 償いも何もねぇ。ただ苦しいから逃げたい、だから殺せなんて言ってんじゃねぇのか!?」
「お前に何が」
「『何が分かる』か、だあ? 事が訳わかんねぇ事になっちまって、親に縋ってるガキと一緒なんだよ、今のおめぇはよ」
 は、と毒使いは鼻で笑った。
「俺が、子供と一緒? 下らない例えも良い所だな。俺はそこまで純粋じゃないさ……おかしいんだよ、根本から」
 毒使いはクロムを睨み返すと同時に、胸ぐらを掴んだままのクロムの手を掴んだ。淡い光が灯ったかと思うと、緑色の煙が出て来た。
 激痛を感じたクロムは掴んでいた手を開いてしまう。その手を払い、再び地面に尻餅をつく形になった毒使いは、ははは、とまたあの狂気じみた笑い声を上げる。それを不可解だと言いたげに見つめるクロム。彼の右手には毒使いが毒で灼いた時に付いた指跡が僅かに残っていた。
「そうだな、逃げたいのは本当かもしれない。もう疲れたんだ……何もかも面倒で、下らなくて、馬鹿馬鹿しい。だからどうするべきか、俺の答えは一つな訳だ」
「『死ぬ事』ってか?」
「ああ、そうだ」
「それが訳わかんねぇんだよ」
 クロムの言葉はいつも直球だ。だからこそ、真実へと少しずつ近づける力を持ち合わせている。
「さっきは話してみせたじゃねぇか。必死に、伝えようしてようとしてたじゃねぇか……リオラが頼んだんだろ?」
 ひと呼吸置いて言い放つ。
「……『殺してくれ』ってな」
 クロムとて、その言葉を信じたくはなかった。だがそれが本当であるとするなら、過去の自分が見落としていた妻の本心を知るきっかけになるかもしれないと思ったのだ。
 何故敢えて毒使いに殺させたのか。
 彼女は娘のセリアを守るため、獣狩り師の仲間を巻き込まない為に逃げ出したはずなのだ。確かに、わざとあっさりと殺される事で、相手に自分の持っている情報は伝わらずに済むだろう。
 しかし、娘であるセリアの存在を追っ手に知られる危険性も十分にあったはずだ。獣狩り師では分からない『魔力片』を探ったのなら、一発だろう。それを見落としたとは思えない。
「……言え」
 クロムは低い声音で言い放つ。どこかうつろな目をしたままの毒使いは眉根を寄せる。
「俺だって正直、訳がわからねぇさ……でも、どんな事でもな、本当の事を知らねぇよりもずっといい。それにだ。エルヴァイン、だったな? 言わせてもらうが」
 少しだけ怒ったように眉を吊り上げたクロム。しかし、その表情は先ほどの憎しみをこめたものとは違う。
「リオラの弟なら、おめぇだって“家族”だろうが!」
 クロムが一間置いて言い放った言葉に、獣狩り師の仲間達も目を見開いた。誰もがクロムを見つめる中、一番驚愕していたのは言われた毒使いだ。
「か……ぞく? ははっ……その姉を殺した俺がか? 馬鹿げてるな!」
「ああ、馬鹿げてるさ。でも、あいつはいつも笑ってた……俺には、何にも言わずにな。俺はあいつに、何もしてやれなかったんだよ。それでも、あいつは言ってた。『大丈夫』だってな。何が『大丈夫』だ……」
 自分の顔を片手で覆い俯いてしまったクロム。そんな彼を見て毒使いが息を吐き出して問う。
「何が言いたい」
「あいつは一人で抱え込んでた。お人好し過ぎたんだ……その弟が、同じことしてるんじゃねえかって思うんだよ、俺ぁ。だから今度こそ受け止めるつもりだ」
「決めつけるな。それに受け止めるだと? 偽善もいいところだ。受け止めた所で」
「偽善だって思うんなら、それでいい! ただ、聞け!」
 クロムは毒使いの胸ぐらを掴み、自分と真っ向から向き合わせた。
「俺はこれ以上……何もしねえまま見てるのは嫌だ。吐き出しちまえばいいもんを抱え込んで、苦しんでるところなんて見たくねぇ」
「……ただのエゴだろう。やっぱり偽善だ」
「そうだな。だから言うぞ。吐いちまえ、全部! 知ってることをな!」
「知るか……お前に語ることなど無い」
「いいか、俺は頼んでるんじゃねぇ。脅してんだ。意味分かんねぇことばっか起きてるからな。一体何があったか、知りてぇんだよ! あいつを殺したって言ったな? どうやって殺したってんだ、さあ、言え!」
「言えばどうなる?」
「さあな。内容次第では俺はおめぇを本気で殺しにかかるかもしんねぇ。けど」
「俺の言葉を、信じられるのか?」
 その一言にはっとして息を飲んだ。
 言われてみればそうだ。ここまで聞いた話、態度。そして狩る側と狩られる側という立場。置かれた状況を考えてみれば、今更信じろと言った所でそうそう鵜呑みに出来るものではないし、信じられる確証もない。
「悪ぃ、ちと頭に血が上りすぎてたみてぇだな」
 毒使いを一度放し、しゃがみ込んで目線を合わせながら苦笑いをした。この状況下でどうしてそんな表情が出来るのか。毒使いはそんなことを考えながらクロムを睨み返す。
 だが、毒使いの問いに対するクロムの答えは一つしかなかった。それを伝えた所で彼が鵜呑みにするかどうかは別だが、少し警戒を解いてやるべきだ。
 何故そんな事をする必要があるのか。まともに話し合いが出来ないからと言うのももちろんあるのだが、今の毒使いは手負いの獣のような空気を纏っているのだ。辺りを警戒し、自分の事しか信じられない。信じるべきなのは自分のみだと思って周りに攻撃を仕掛けている。
 ここまで追い込まれていれば彼自身の神経が持たない。
「どれが本当でどれが嘘だとか、信じる、信じないなんて今更じゃねえか。さっきも言ったが、どれが本当なんだか訳が分かんねぇしよ」
 ため息をつきながら地面に座り込むと、後ろに手をついて空を仰ぐ。
 まだ僅かに雨雲が残ってはいるものの、そこから覗く青空は澄みきっていて少しばかり安堵感を与えた。
「自分で言うのもなんだが、俺は変に馬鹿正直らしくてな。もうちっと考えて行動しろだとか言われるのはしょっちゅうだ」
 頬を掻きつつ後ろの仲間達を見やるクロム。彼の言葉を肯定するかのように三人が声を上げた。
「そうそう。今も突っ走ってオレらの存在完っ璧に忘れてただろ」
 血が止まったのか、足の具合を確認しながら言うロウ。
「悪ぃ、そりゃ認めるわ。血の気多いおめぇに言われるのも納得いかねぇけどよ」
「今まで茅の外だったのに急に話振ってきますし。セリアちゃんのこと忘れてたでしょ。一部始終見てなくてよかったですよ、自分のお父さんがいきなり怒るのなんて見慣れてないでしょうから」
 セリアを労るように、膝に頭を乗せてゆっくりと撫でているルエル。傍らに座り込んだままのロウが頬を突こうと伸ばしてきた手をたたき落としていた。
「あー、悪ぃ」
「別にいいんだけどさ。そこが大将の長所だろうし。……長所?」
 どこから持ってきたのか、適度な大きさの布をセリアにかけてやっているルイドが首を傾げて言った。
「短所じゃね?」
「真正面から向かって喋れるのは良い事だし、裏表がない事も良い事だけど、あまりストレートに言いまくってるのもちょっと、ねぇ?」
「たまーに不安になるよ。相手の神経逆撫ですることもしょっちゅうで、止めたりフォローいれるのは大体俺かルエルだし」
「おめぇら容赦ねえな」
 いつの間にかクロムの性格に対する駄目出しが始まっている。それを聞き流すつもりで毒使いの方を見やるクロムだが、後ろの三人の会話はまだ尽きていなかった。
「おい、オレ入れ忘れてるぞ」
「お前は煽ってるか大将よりも先に突っ走ってるのしか見たことない」
「そうそう。さすがは仲間一の血の気の多さ」
「んだと!?」
「ほらぁ、すぐに怒るでしょ」
 騒ぐ彼らに苦笑しながら、クロムは毒使いの目を覗き込む。
「ま、こんな体たらくだ。説得力ねぇのは俺が一番分かってるつもりだ。でも俺の結論は一つしかねぇんだ」
 その目には先ほどまでなかった感情が込められている。
 喋らない人間の感情を一番語るのは目だ。長年の間で培ってきた感覚で、毒使いはそう感じている。
 視線でほだされた、とでも言うべきだろうか。あの目を見て自分は話を聞く気になったのだ。
 ───ああ、そうか。この目。あの時と全く一緒だ。あの記憶の中にある、姉と語った女と───
 毒使いの肩の力が抜けた。それを見計らってか、クロムは僅かに笑んでみせながら言ったのだ。
「信じるさ。それしか言えねえ」

 

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