第2章《獣狩り》

 

7.【優しさ】

 

 驚きに固まっているクロムの足元で虚ろな目をしたセリア。彼女の頭は今聞いた言葉を繰り返していた。

 

 君の母親を殺したのは───僕だよ

 

 その言葉は。

 

 母さんを殺したのは、あの男なのよ!

 

 繋がった。
 今までバラバラに存在していたものが、欠片が、まるでパズルのピースのようにぴったりと当てはまった。

 憎ければ復讐を果たせ。
 お前のその手で、母を殺した者を。

 審判を下せ。
 醜き罪を背負った者を排除せよ。
 さすれば、世界は───。

 母のようで、知らない声が響いた。
 母さんは殺された。
 殺したのは、横にいるこの男。

 急に怒りが膨れ上がった。
 自分の中でどうしようもない感情と、今まで知らなかった力が渦巻くのが分かる。

 

 セリアは男の首に手をかけた。力を込めて徐々に、徐々に締め付ける。男の喉から漏れた空気の音が聞こえた。その光景を見たクロムは、はっとして娘の手を上から掴んだ。
「何やってるんだ!」
 男の首から娘の手が離れ、クロムは驚きのあまりに目を見開いていた。
「何、やってるんだ」
 その呟きは聞こえているのか。俯いて身体を震わせる娘と濃紺の髪に隠れている男の眼を見ながら言った。
 一体何が起きている? それにこの男───まさか、とは思った。けれどその髪色といい、同じ眼の色といい、どうしてもある人物を連想させるのだ。纏う雰囲気こそ違うが面影があった。
 クロムが信じられないような目で男を見ていた時、セリアがぼそぼそと何か言っているのが聞こえた。
「放せ……」
「何?」
「放せ、放せっ! 放せぇ!」
 父の手を振りほどこうと娘はもがく。けれどクロムは手を放さない。ぐうぅ、と獣の唸り声に近い声をセリアは上げた。先ほどまで自分の傍らで不安そうに震えていたのが嘘のように娘は暴れる。頬からは、涙とも雨ともとれるものが流れていた。
 この細腕にこんな力があったのかと思わせる程、娘の力は強かった。その力は獣狩りで鍛えられた腕を持つクロムさえ凌駕しそうなほどだ。
 暴れる娘を止める父親。
 傍らで地面に倒れ、それでも口元では笑みを浮かべている毒使い。
 異様な光景に獣狩り師達は戸惑うしかなかった。
 父親の束縛から逃れられずセリアはさらに足掻く。ギリリと周囲に聞える程の歯噛みの音がした。心中でセリアは必死に叫んでいる。自分の感情と、そして自分のものではないような感情とが入り混ざっている。

 

 ───邪魔するな。やめろ。助けて。……止めて!
 セリアの周りには何もなかった。ただ広く暗い空間が続くだけで、ずっとこんな場所にいたらおかしくなりそうだった。
 ただの暗闇の世界。そして恐怖をもたらす世界。
 セリアの中にある迷いを断ち切るように誰かの声が聞こえた。
 ───仇を取りなさい
「嫌だ。苦しい。死……ね……ダメ!」
 紡ぎたくもない言葉が出てきては必死で否定する。なぜ今、自分は「死ね」と言ったのだ? 考えてもいなかったのに。
 ───復讐を果たすのよ
 誰のものか分からない声が言う。
「やめて。イヤ。怖い。恐い、こわい!」
 暗闇。その中で頭を抱え、頭を振り乱すのは自分。
 ───殺しなさい
「こわい、こわいこわい! 苦しい、よ」
 ───この男を、殺しなさい
「ころす、のは、イ……ヤ」
 ───母を殺したのは、この男なのに?
「知、らない、しらない! しらない! やめて! やめて……苦、しい……!」
 骸となった母を思い出した。あれは過去の現実。それを再現させられ、見せられたのだ。一体誰に?
 ───仇をとらないのか
「イヤだ……かたき、ってなに……」
 分かっている。敵と言うのは紛れもなく母の敵のことなのだと。
 ───母を醜い姿に変えたのは、この男なのに
「いや、だ。こわい……こわい……」
 足がすくんでしまって動けない。地べたに座り込んで耳を塞いだ。
 ───殺せ
「こわい。いやだよ、かあさん、殺さ……殺し……」
 母を殺したのはあの男。それは分かっている。再現された過去を見たのだから。だが、それは誰が見せた?
 ───お前の手で審判を。お前の母を殺した男に審判を
「いや、だ……やめて。やめて! やめてぇ!」
 ───醜き姿で死んだ母を思い出せ
 あの半身が融けた状態で苦しみながら死んだ母は、骸となっても私に「復讐しろ」と叫んだのだ。自分が殺された無念を晴らすために。それに以前の優しき母の面影などなかった。
 どんなに辛くとも笑っていた。優しく包み込むような暖かさを持っていた。何よりも父と自分を愛し、慈しんでくれた。そんな母は、あの場にいなかった。
 母と別れた時、自分は幼かった。だが覚えている。母は人を憎むことなどなかった。悪い行いをした自分を叱ることはあっても、過酷な現実を無理矢理突き付け、心を傷つけることはなかった。悪い行いをさせようとはしなかった。
 復讐。男を殺せと言う。それは本当に母の意志なのか。復讐をすれば母は救われるのか?
「……違う、あれ、かあさんじゃ……」
 ───否定するのか。母を見捨てるのか
「違うちがう、ちがう! いや! 母さん!」
 ───見捨てておきながら、縋るのか
「ちがう! 母さん、かあさん!」
 違う。骸となって、融かされて、復讐をしろ、一族に捧げろと言ったのは母ではない。そう直感したとき、なつかしい声が聞こえてくる。
 ───セリア
「かあ、さん」
 ───お前は私を助けなかったのに、私にお前を助けろと言うの?
「え……」
 その母の声は酷く優しげで残酷な響きを持っていた。
 助けを求めてはいない。そう思ったが違う。心の奥底では「助けて」と叫んでいる。
 この現実を突き付けるな。私に人を殺させるな。母の声で語りかけるのはやめてくれと。
 誰なのだ。母なのか? 違う。
 ならば母の声で囁き、命令するのは誰だ。
 誰か真実を教えてくれと呟く。その途端だった。

 ───殺せと言っているでしょう?

 脳裏に冷淡な母の声が聞こえた。身を裂かれたような思いがし、胸に激痛が走る。
 ───母さんが殺せと言った。母さんがそんなこと言うはずない。でも言う。母さんが、殺された……母さん……母さんが……。

 

 もう、分からない。
 セリアが涙を流し、叫んだ。

 

「こいつがっ……こいつが母さんを殺したんだぁぁぁ!」
 クロムは先ほどとは豹変した態度で暴れる娘に恐怖を感じるより、娘の言った言葉に驚く。
 ───こいつが、リオラを?
 だがその思考を巡らせている間に上から雨雲とは違う影が現れ、足が見えた。
「レリック……」
「動くな」
 冷静に言い放つレリックに物怖じしそうになる。
 降り続ける雨が銀の髪から滴り、頬を流れていた。それはわずかに優美さを残し、神秘的と言えるような光景を作り出す。だが同時に異質な雰囲気も感じさせた。
 紫の瞳が静かに威圧している。
 クロムはそんなレリックを見て───やはり伝承の“悪魔”なのだということを頭の片隅で思った。
 レリックはスッと屈むと、クロムの腕の中にいる獰猛さを露にしたセリアの額に手を当てる。セリアは発狂し続けながらレリックの腕を払う。暴れる娘の身体を押さえるクロム。端から見ると、娘がだだをこねているようにも見えた。
 その娘の言葉を聞かなければ、だが。
「やめろぉ! 邪魔するなあぁ! そいつはっ……」
 もはやセリアの眼の色は変わっていた。
 暴れ狂う娘を何も言わずに必死になって抱きとめる父親。それを見据えるレリック。傍らには口元に笑みを浮かべ、倒れた男の身体。
 この異様な光景を見て立ち尽くすロウ。他の二人の獣狩り師達も唖然としていた。
 あの心優しく大人しかった子が、何故こうも豹変しているのだ? と。
 ルエルとルイドはただ呆然と見ているしかなかったが、ロウはその光景を見ていて何かを感じ取った。
 セリアが放っているピリピリとした空気。そしてこの威圧感。
 ───何だ、これは。
 今も放たれているその殺気といい、あまりにも酷似し過ぎていた。
 人間が放っている雰囲気というのは人によって違う。殺気も同じだ。殺気と一言で言っても目的や人によって、人間の気配のように変わってくる。
 けれど今のセリアが放っているこの気配は───まさか。けれど確かに。
「冗談じゃねぇ」
 セリアが放っている気配は、あの───倒れている毒使いと酷く似ていたのだ。
 思わずロウは狼狽えた。
 どうしてセリアが?
 ルエルとルイドは気が付かないらしい。呆然としてロウの言葉に不思議そうな顔をするだけだ。
 そうか。あの男と直接戦ったのはオレだけ。しかも二人は寝込んでいたな、とロウは思った。感覚に優れている獣狩り師と言えど、体調が悪ければ感覚は働かない。
 でもまさか。どうして毒使いと同じ気配を───
「落ち着くんだ」
 無駄とも言える言葉を吐くレリック。セリアは止まらずにただ叫んでいた。
 この男が母を殺したのだと。殺させろと。
 魔法使いと獣狩り師の血を引き、双方から見てもまだ幼い彼女がどうして。
 暴れる手がレリックの頬を掠める。毒使いの付けた傷の上にまた新たな引っ掻き傷が増えた。レリックは何をしようとしているのか、傷に構わずにセリアの額に手を伸ばす。
「どけぇっ!」
「そういう訳にはいかない」
 怒鳴り声に返事をしながらゆっくりと集中する。
 レリックは何故こんなことをしているのか。
 セリアのこの豹変ぶり。これは幻覚を見せる魔法か魔術をかけられているのではないか、と踏んだのだ。そしてセリアの意識に干渉し、意識を読み取って根源となっている幻覚を消そうとしている。あまりいい方法とは言えないが、今は急を要する。
 徐々に意識の中が見えてくる。その間セリアは暴れることを止めずに叫び続けた。その悲痛な叫び声を聞きながら、父親のクロムは娘を必死になって抱きとめる。
 セリアの叫び声はいつの間にか母親の事ではなく、レリックへの敵対心から来るものになっていた。
「やめろ! やめないなら、お前から殺してやるぞ、悪魔ぁ!」
「出来るものなら、やってみせてくれ」
 挑発するような台詞を吐く。意識の中には、何も根源になるものが見当たらない。まさか───通常よりももっと深い意識の底───深層意識に根源になっている幻覚が潜んでいるのか。そう確信してレリックは内心で歯噛みした。
 こうなってしまえば解くのに時間がかかる上、魔法をかけられている者へ負担がかかる。それを解くには正確さと膨大な術式が要求され、一つ手順を間違えようものなら、少なくとも精神崩壊を起こし、最悪の場合、死に至る。
 これだけの上級魔法をかけるには、それなりに熟練した『高等魔法使い』級の知識と魔力が必要だ。そしてこの場にいる『高等魔法使い』と言えばレリックだけだ。
 いや、もう一人いた。この隣で横たわっている毒使いは認められてこそいないものの、魔力と気迫だけは『高等魔法使い』並みだった───先ほどまでは。今は魔力を使い果たしたのか、先ほどまでの気迫は欠片もない。きっと異常なまでの激情で一時的に魔力が増幅されていたのだろう。それに魔法にこの男の『魔力片』も感じられない。となれば、幻覚の魔法をかけたのはこの毒使いではない。
 獣狩り師達は魔法を使えないし、村から一つも『魔力片』も感じられない。
 この隠し方と手口。巧妙とは言えず、下手をすれば使い主の『魔力片』がだだ漏れで魔法に精通している者にはすぐに気付かれる。なのに私はどうしてもっと早く気がつかなかったのだ。
 一体、誰が。
 そう思っているうちにセリアの叫び声が再び聞こえてきた。
 少々思考にのめり過ぎてしまっていた。
 この危険な状態でどうやって抑えればいいのかと方法を考える。口元を手で覆い、考え、何も思い付かないと手を離すと、自分の手に血がついていた。
 この血は毒使いにやられた時の傷か───。
「そうか」
 と、そこで一つの方法を思い付いた。
 セリアの顔を左手で支え、右手を再びセリアの額へ伸ばす。額についた水滴を拭ったあとに自らの傷口に触れ、指先に血をつけた。その昔に書物で読み、久しく使っていない呪文詞を思い出しながら組み合わせて口にする。
「“操り手よ。万物の創造たる主の御言を聞き入れよ”」
 左手で手を組み印を作り、詠唱する。
「やめろ!」
「“万物は万物を魔で制してはならぬ。制せばお前へ鉄槌が下される。万物を制すのは神のみ”」
 詠唱とともに印が複雑になっていく。空を切り、指を組み、印は紡がれ続けた。
「“操り手よ。魔で制し、同等の万物を操ることは創造主たる神への冒涜。呪がお前へ下される”」
 これは操っている者への警告の言葉だ。だが相手に反動や処罰が下されるわけではなく、あくまでも形だけのもの。魔法陣を描くきちんとした魔術での処置なら相手に術返しも出来るだろうが、今はそれだけの準備が出来ない。その間、代わりに左手で組まれた印で特殊な魔力が紡がれる。
「“万物に制され、断ち切れぬ魔に制されし操られ人よ。操り手へ主の呪と鉄槌が下されるその時まで、汝に一時の楽を与えよう”」
 左手が止まり、ぼんやりと輝く赤い光が現れた。
「やめろ……!」
 それが右手の血へ吸い込まれたように動き、右手についているレリック自身の血が発光する。
「“汝に封呪の法を処する”」
 セリアの額に血陣を描く。素早く描かれたそれは一度強く発光し、そのままセリアの額へ少しずつ吸い込まれていく。
「あ、がぁぁ……!」
「もう少し、頑張るんだ」
 掌に宿した魔力で血陣を押していく。苦痛に呻くセリアへ声をかけるが、次の瞬間にセリアの両手がレリックへと伸ばされ首を締め付けられた。
「もう少し、もう少しで思い通りだったのに……」
「やめろ、セリア!」
 怒鳴りつけながらクロムが娘の手を引きはがしにかかる。意外と手に力は入っておらず、一度力強く引くとすぐに離れた。
「審判を下せ」
 レリックの方はセリアの行動に少し驚きはしたようだが手は休まることはない。それ以上に不可思議なセリアの言葉が気にかかった。
「醜き罪を背負った者を排除せよ……さすれば世界は……」
 そこで血陣が完全に吸い込まれる。途端にセリアの身体から力が抜け、それを背後のクロムが支えた。
「……なあ、セリアは」
「操られていたようだ。魔術封印で一時的に静めたが、いつまで抑えられるか分からない」
 頬を伝う血を拭い、男の方へと向き直る。
「さて」
 しゃがみ込んで、男を仰向けにさせた。
「復讐とやらは、しなくていいのか?」
「……嘲るのか」
 男は焦点の定まらない目で虚空を見る。わずかに上げられた手が空を切り、ぱたりと地面に落ちた。
「嘲っているのか、人の生き様を笑うのか。悪魔……自分も、呪われて生きているくせに」
 ───化け物だと罵られ、迫害されて自分はここまで生きてきた。今も精神を食い破り巣食っている感情はどこにも吐き出せずに、精神はさらに浸食されていく。時間をかけて消えていくどころか、そいつは精神の傷に深く深く棲みついてしまったのだ。憎悪という感情は。
 迫害してきた者を憎んでも憎悪が消えるわけではない。それは頭の片隅では分かっていた。ならば消すには何をすればいいか。すでに狂い始めていた頭で考えた結果は、自分でその者達に手を下すことだった。そうすれば憎悪は消え去ると思っていた。
 だが、消えるどころか罪が増え、さらに迫害を受けるだけ。延々と繰り返すだけの無駄な行為だったのだ。それにも頭の片隅で気がついていた。けれど自分では止めることなど出来なかった。無限の連鎖と一瞬ですら消えてはくれない傷と感情。耐えられなくなって結果的に狂ってしまった。
 唐突に気がついて、自分の愚かさに嘆く。
「嘲るつもりはないさ。そうだな、ただ」
 毒使いは“悪魔”という呪われた命運を背負ったまま、平然と生きている魔法使いがうらやましいと思ってしまった。
 一間置いてレリックは言う。
「報われないなと思っただけだ」
「むく、われない?」
「過去の戒めから逃れられないどころか、逆に自分自身を縛り付けている」
「どういうことだ」
「言っただろう。『感情の価値は人によって違う』『ようはその人間の価値観と、感情の捉え方だ』と。それは“思想”も同じだ」
「分からないな」
 掠れた声で呟く毒使いをレリックは見返す。
「過去に受けた仕打ちを糧として思い込みすぎてしまったのさ。自分は必ず復讐しなければならない。こうしないと過去の傷は癒えないと。他にも理由はあると思うが」
「……はは……本当に、そのとおりだな。馬鹿……馬鹿だ」
 目頭が熱くなるのが分かる。雨雲が通り過ぎ、光が顔を照らした。日光に耐えられずに右腕で視界を遮る。
「愚か、と言うんだろうな。どうしようもなくて……気がつけば、ここにいた」
「愚かさと言うものは誰にでもある。だがそれに気がつくかどうかは、その人間次第だ」
「だったら、俺は気がついた人間ということか? 今頃気付くなんて……それこそ愚か以外のなにものでもないな」
 ははは、と目を隠しながら男は笑い、それをレリックはただ見ていた。傍にいたクロムは気を失ったセリアをルエルに頼んで預けていた。
「どうして今頃気が付いて、どうして今、こうも落ち着いていられるのか、自分でも分からない」
「きっと奥底では気が付いていたんだろう。『こんな事をしてもどうしようもない』と」
 毒使いは右腕を力なく放り出す。濃紺の目が現れ、そのまま涙をこぼした。同色の髪は地面に広がり、数本が風を受けてふわふわと舞っていた。
「私もな、いくら悪魔と言われようと感情はある。考える頭もある。どうしようもなく追い込まれた気持ちというのは、痛いほどに分かるんだ」
 レリックは独り言のように呟き、無言の時間が過ぎていく。どちらも喋り出そうとせず、男は空を、レリックは地面を見つめていた。遠くで人のざわめく音がする。きっと集落の人間だろう。レリックがそう思って顔を上げると住人達の中傷が入り交じった声を背に、一人がこちらに近づいてきていた。その姿を見て立ち上がり、こちらからも近づく。
「ああ、失礼」
 その人物がレリックを見て驚いたように目を見開き、理由に気が付いてフードを被る。先ほどまで色々あったため、悪魔の特徴である髪を隠すのをすっかり忘れていたのだ。
「なんとも恐れ多い。集落の者たちが無礼な事を申しました。どうか、どうかお怒りくださらぬよう」
 そう言って頭を下げる。まるで王や司教にでも取るような言葉遣いと態度だが、これは単に“悪魔”を恐れていての行動だ。『悪魔が一度怒れば魔法を使って村を一瞬にして壊滅させることも、何百人の人間も殺すことが出来る』。伝承でよく語られていることだ。そんな事にも慣れてしまっていたレリックは、頭を下げ、下手をすれば土下座をしそうな勢いの男に言う。
「いや、気にしてはいない。顔を上げてくれ」
「なんと寛大な。ありがとうございます」
 顔を上げた男はその言葉遣いと物腰にしては若く見える。三十代後半と言ったところだろうか。
「失礼しました。私は、この村の長をしているジグオールという者です」
「<高等魔法使い>のレリックだ。見たところ、何か言いたいことがありそうだが」
「はい」
 表情から相手の心理は大体読み取れる。返事をする村長の視線の先は倒れている毒使いへと向けられており、落ち着きがない。
「この男になにかあるのか。話したいのなら、話せばいい」
「……よろしいのですか?」
「ああ」
 レリックの返事を聞くと村長が毒使いの元へ近づき、しゃがみ込んで毒使いの顔を見る。しばらくまじまじと見て「おお」と感嘆に近い、驚きの声をあげた。
「エル、『エルヴァイン』か?」
 呆然としたままだったの毒使いの目にやや光が戻る。正気が戻ったように毒使いは勢いよく上半身を起こした。
「何故、俺の名前を知っている」
「まさかとは思ったが、覚えていないか? ジグだ。イヴァーク家の、ジグオールだ!」
 村長───ジグオールは自らの胸に手を当て力説する。毒使いはその姿を頭からつま先まで確認すると目を見開いた。
「ジグ?」
「そうだ! ほら、村で唯一おまえと同じ歳の。友達、だっただろう」
「……ああ、あの、ジグか?」
 毒使いが声を上げると「思い出したか!」と村長のジグオールは歓喜に近い声を上げて毒使いに抱きついた。随分となつかしい再会だったのだろう。彼の声は上擦り、感動しているように聞こえた。
「生きていたんだな。良かった、本当に良かった……」
「お前が村長になっているとはな」
 少し皮肉気に毒使いは言う。その言葉にジグオールがうっと言葉を詰まらせ、何かを堪えているような表情をする。
「前の長は、九年前に亡くなったんだ」
「あの長が、か」
「それと……ゼオラールさんも、五年前に……」
 その家名を聞いた瞬間、毒使いの顔がわずかに引きつる。
「ああ。だから。だから、な。おまえを嫌った奴は、もういない。この二十年、いや二十一、二年か? どこにいた? なにをしていた?」
 意味ありげな口調で毒使いに言い聞かせる。途端に彼は悲しみにくれたような、絶望したような、表現のしようがない複雑な顔をした。
 いつの間にか戻ってきていたクロムが毒使いを指差し、ジグオールへと声をかける。
「長、こいつが今回の獣の正体だ」
 ジグオールがどう言う意味だ? と問うような目を向けている。確かに人間を指差して獣の正体だと言われてもいまいちピンとこないだろう。横にいたレリックが補足してやる。
「魔法で見えない獣を形成しては、襲わせていたようだ」
 あるいは魔法で動物を獣に強制変換させて。それは口には出さなかった。
 動物を獣に変える───あの狂気で支配したのだろう───すなわち生体の意志や身体を強制的に変える。それはある意味で生態の法則を覆しているのだ。これは数ある魔法の中でも忌むべきもので、禁忌とされている魔法の一種。とは言え、闇魔法、闇魔術師と言われる者なら平気で禁忌魔法をこなす者が多い。
「そうだろう?」
 レリックの問いに毒使いはただ黙っていた。ジグオールが信じられないような表情を浮かべ、毒使いへ「そうなのか」と問う。その問いにさえ毒使いは黙っていたが、それが肯定の意と言うことが分かると「なんと嘆かわしい」と呟く。毒使いは悲しげな目をしていた。
 そんな彼にジグオールは一通り呟き終わった後、こう言った。
「なあ。戻ってこないか? この村に」
 その声は酷く優しい響きだった。
「あの長はいないんだ」
 再度言い聞かせるように。
「おまえがこの村を襲ったという気持ちも、何となく分かる」
 哀れな愚者を見据えて。
「話せば、村人もきっと分かってくれる。あの頃のことを覚えている者もいるだろう……それは、説得するさ。無理矢理にでも」
 ジグオール。彼は『罪を憎んで人を憎まず』といった数世紀ほど昔の優しさがあった。
「だから、帰ってこないか?」
 ───とても愚かな優しさが。

 久々に再会した『友』と言えるべき男が自分を受け入れようとしている。それが嬉しい反面、どうしようもない怒りが再び沸き起こってくるのが分かった。
 どうしてだ? 本当ならどこぞの物語のように、涙が出るほど嬉しいはずなのに───その言葉を紡ぐな、と。何かが頭で叫んでいた。
 酷く胸が、頭が痛む。言うな。それ以上。触れるな。思い出してしまう。
 お前が俺に何をしてくれた? 今と同じように『偽善』を被っていただけだろう?
 そしてお前が───この感情を吐き出さなければ、きっと自分はまた狂う。
「黙れ」
 それが毒使い───エルヴァインの吐き出した言葉だった。

「え?」
 村長ジグオールは、自分よりも一回りほど若く見える友人の歪む顔を見て、吐き出された言葉を聞いて、一瞬目を丸くした。
「黙れ」
 毒使いは唸るように低く言い、殺気立った獣のように目をぎらつかせた。
「なあ、エル」
「黙れ。それ以上、言うな」
 ジグオールの肩を乱暴に押しのけ、片手で目を覆いながら、なんとか立ち上がる。
 遠くにいる獣狩り師たちが何事かとこちらを見ている。
「エル、どうしたんだ?」
 訳が分からない、という風にジグオールが困った表情を作った。毒使いは彼に目を合わる。
「この俺が襲った村にか? お前はそこに『戻ってこないか』と言ったのか?」
「ああ、その通りだ」
 ジグオールはつばを飲み込み、自分に向けられるその気迫に耐えながら言う。
「受け入れてもらえないと思っているのか? この村を襲ったから。なら心配はない。おまえがした事を、怒ってはいないよ」
 また優しげに響く声。
 会っていなかった年月の中で、大人になって持った落ち着きさえ見せた。
 それを聞いて毒使いは眉根を寄せ、思いもよらない一言を吐き出した。
「とんだ仕打ちだ」
 ジグオールの目が見開かれる。
「戻れ? この俺を追い出した村に、か? ふざけるな!」
 拳を降り下げて毒使いは叫んだ。ジグオールの遥か後ろでは村人たちが恐怖に怯えながらも経緯を見守っている。
「お前は聖職者のように、忌むべきものも全て受け入れる信念を持っているつもりなのか? だとしたら、それは違う」
「何を」
 何を言っているんだ、と言いかけたジグオールの言葉を遮る。
「お前はあの頃の自分を忘れて、今の自分を正当化したいだけだ」
 そうだ。昔、あの時。確かに俺達は“親友”と言ってもいいほど仲が良かっただろう。
 けれど俺は“拒絶”された。
「虚勢を張っている。本当は受け入れるのが怖いんだろ? だけど忌み嫌われた俺でさえ受け入れて、人間としての器の大きさを示したいだけなんだろう? 腹の底から笑えるな!」
「エル、違う」
「そうでないとすれば、お前は一体何がしたいんだ。それ以外、俺を受け入れるなんて行為に利点も何もないだろう」
 段々と怯えらしきものを見せ始めたジグオールを嘲るように毒使いは言葉を続けた。
「前の長がいない? だからどうしたんだ。あの頃に村に住んでいた奴は今でも大勢いるだろう。いくら説得したところでそいつらが俺を受け入れると思うか? それにお前も、他の村人と変わらない。お前もあの時、俺を拒絶した」
「あの時……。あれは」
 ジグオールの目が泳ぎ、キッと睨み付ける毒使いから目を反らした。どう見ても言い訳を考えているとしか思えない表情だ。
「何だ。どうして戸惑ってる。弁解の言葉も出てこないのか? あの時の心境も説明できないのか? 俺が怖くて声が出せないのか?」
「あ……」
「それこそ、お前が虚勢を張っている証拠だ」
 毒使いが言い切るとともに彼は完全に言葉を失った。怒りのせいか、一度に喋り過ぎたせいか、毒使いは息づかいを荒くしている。
 毒使いは目を離さずに、ずっと睨み付けていた。
「虚勢を張っているのはどっちかな」
 するとそれまで黙っていたレリックがスッと毒使いに歩み寄ってくる。フードの奥で紫色の目が光っていた。
「今、言ったな。虚勢を張っていると。だが毒使い。お前こそ虚勢を張っているんじゃないか?」
「どういう意味だ」
「そのままの意味だ。哀れすぎて見ている方が泣きたくなってくる」
「悪魔が泣く? 冗談のつもりか」
「ちょっとした比喩だよ」
 ははっ、と乾いた笑いが響き、毒使いは溜め息をつく。
 熱く膨れ上がっていた感情が、急速に冷えて収まっていくのが分かる───そうか。突然話しかけてきたのは、俺を落ち着ける為に───つくづく、哀れに思われてるのだろうなと思った。それとも村の安全を考えてのことか。
「さて。訊くが……あの子の母親を殺した、と言ったな」
「だから?」
 一間置いて、悪魔が目を光らせ、問う。
「昔、何があった?」
 その一言にズキリと胸が痛み、毒使いは痛みをこらえてつばを飲み込む。
「……昔、何があった。か……」
 悪魔を見据えたその目は、手負いの獣のようだった。
 何故レリックがそのような質問をしたのか。それは何となく分かっていた。
「この村……故郷か。何らかの理由で追い出されたのだろう? そしてあの子の母親のことと、お前が狂っていた理由も、そこにある」
 全く、勘が鋭すぎる。と、毒使いは溜め息をついた。
「昔、何があったか……。お前にとってはくだらない理由にしか聞こえないかもなぁ?」
 くつくつと笑うがそれも続かず、毒使いは徐々に目を伏せた。
「長くなるぞ?」
「私は構わないが」
 すっと、レリックはクロムに視線を向ける。
 お前も聞く決意はあるのか? と。
 言葉にこそ出さないが、自分の妻を、娘の母を殺した相手の話を───弁解ともとれる話を聞くことになるであろうから。
 彼はただ、黙って頷いた。
 毒使いは空を仰いで目を閉じた。

 

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