第2章《獣狩り》

 

6.【意思】

 

 あのレリックが、はっきりと不快感を露にしたことにクロムは内心驚いていた。
 まさか。あの飄々としていてとぼけていた魔法使いが。
 そうだ。自分の事となると話すことを渋ったり、話を反らしたりしていた魔法使いが。
 よほど嫌なことでも言われたのだろうか。
 だが、横でセリアが服の裾を掴んできたので、そこで思考が中断した。
「どうした?」
「あの人、母さんの事」
「は?」
「大将」
 後ろから手当てを受けたロウが言う。
 振り返ると、寝ていたはずのルエルとルイドまで出てきていた。
「アイツ、リオラさんの事知ってるんだよ」
「リオラを、か?」
 リオラと言うのはセリアの母親のことだ。久しく聞いていなかった母の名前にセリアが顔を上げ、クロムは驚いた顔をしていた。すっかり顔色の良くなっているルエルは、何か思い当たった顔をしてロウに話しかける。
「ロウ」
「ああ。やっぱ、あの事だろーな」
「一体何があったってんだ」
「本当はもっと落ち着いた時に話した方が良いんでしょうが、そうも言ってられませんね。それはわたし達がお話ししますよ、大将。ここから少し離れましょう」
 ルエルが言い、クロムとセリアの二人は三人について行くように動いた。
 クロムの横に居るセリアはどこか怯えた顔をし、ルエルは安心させる為にかセリアに近づいて頭を撫でてやると、にこりと笑った。そんなルエルの表情が奇麗な笑みから急に辛そうな笑みへと変わる。
「セリアちゃんも、知っておかなきゃいけないことだから」
「私も?」
「そう。セリアちゃんのお母さんからの、頼まれ事」
「母さんの?」
 セリアが目を伏せた。
 微かにしか記憶に無い母親。
 名前を呼べば微笑んでくれた。それくらいしか覚えていない。
 微かにしか覚えていないが、それでも。
 いつでも優しくて、暖かい存在だった。
「聞いてくれる?」
 ルエルの微笑みが少しだけ記憶の中の母親と重なった。
 声には出さずにセリアはただ頷く。
「それじゃあ、話すね」
 ルエルはスッと立ち上がり、一度レリック達の様子をうかがう。
 彼らがこちらから気が逸れていることを確認すると、まずはクロムに向かってポツリポツリと話し始めた。
「まず、あの人。今、ロウが戦っていた人は“毒使い”と呼ばれる一族の者、だと思います」
 なるほど、だから向かってくる獣たちは毒で構成されていたのか。
「詳しいことは分かりません。魔法使いなんですが、その名の如く、毒を使ったものを得意としているらしいんです」
「そうそう」
 ルエルの横でロウが同意し、今度は彼が続ける。
「んで、リオラさんがな。“薬使い”って呼ばれる魔法使いらしいんだ」
「薬使い?」
「おう。そのまま。治療や解毒なんかを専門にしてる魔法使いだって言ってたな」
「何で知ってるんだ?」
「大将、ちゃんと話聞いてねーな。ルエルがさっき言ってただろ。頼まれ事だって」
「つまり?」
「よーく聞けよ? リオラさん本人が、いなくなる前にオレらに伝言頼んだんだよ」
 クロムはその一言を聞き、何故か胸を突かれたような痛みが走った気がした。
「何で」
「とりあえず、それは話が終わってからと言うことで。とにかく、リオラさんは薬使い、あの男が毒使いなんです。毒使いは自らが操る毒で、昔から暗殺などを行っていたらしいんですね。ところが、薬使いはそれを治してしまう」
「商売敵みてぇなもんか」
「そのとおりです。だから、昔から仲はあまり良くなかったようで……」
 そこで一度言葉を切る。
 先ほどから何も言わないルイドはと言うと、対峙している二人の魔法使いの方を見ていた。様子をうかがっているのだろう。
 これが獣狩りなら、見張り番と言ったところか。
「そこである日、毒使いの一族が薬使いの一族に奇襲をかけたそうです。薬使い達はバラバラになって逃げて、リオラさんはその時に大将に助けられたらしいですよ」
「そう言えば、倒れてるところを助けたんだったな」
「とにかく。毒使いはそうそう簡単に諦めるような性格をしていなかった、というよりも薬使いに奇襲をかけた時、宣戦布告したそうです。『お前らの一族を根絶やしにしてやる』と」
「よっぽどだったんだろーな。話す時にも青ざめてた」
「リオラさんは、毒使いが追ってきてるのに気がついたようで、わたし達に伝言を残して、獣狩り一族から抜けたんです」
 簡単な説明だったが、クロムには十分驚くべき内容だった。
 自分が知らなかったことを、こんな事を妻が抱えていたのだ。助けた時からセリアが産まれ育つまで。一体何年間、隠し通してきたのだ。しかも自分には伝えずに他の仲間に伝言を残して失踪した。
 少し、不安を覚えた。
 ロウがクロムの横にいるセリアに向かって思い出したように言う。
「な? だからオレがお前に『逃げろ』って言っただろ?」
 セリアもその時のことを思い出し、そしてロウの言葉の真意が分かって、あの時嘆いていた自分が急に恥かしくなった。
「お前がリオラさんの子供だって事は、多分とっくにあの野郎に知られてたんだ。リオラさんが母親って事はお前も薬使いの血を引いてるから、今度はお前が危なかったんだよ」
 そうか。そうだったんだ、と納得し、セリアはそっと胸を撫で下ろす。けれどすぐに何かが募ってきた。
 ───母さんは、何故逃げた? 薬使いの血を引く私を残して。
「……引き止めなかったのか?」
「いいえ、わたし達もリオラさんを引き止めました。けれど『ここにいたら、私以外の人も巻き込んでしまうから』って。リオラさん、そう言ってました」
「そうか……」
 クロムは自重ぎみに笑い、娘の頭を撫でた。
 いつの間にか降り出してきた小雨が、全員の身体を打つ。
 大したことは無い。けれど空が───厚い雲で被われた空が、自分の今の気持ちを象徴しているようで嫌だった。
 なんとなく、何かから逃げていることは気が付いていた。
 いつも優しげな笑みを浮かべるその顔が、時々曇ることを知っていた。
 そうだ。いつの間にか勝手にリオラの事を全て知っているような気がしていた。それでいて結局は重要であり、恐らく彼女の表情が曇る原因であった事については……何も知らなかった。今となっては、そこに脳天気に笑う自分がいたことが許せない。
 何も知らずにただ笑う自分。
 何も知らずに脳天気に生きてきた自分。
 どうして俺はもっと彼女を気づかってやれなかったのか。
 どうして何も察することが出来なかったのか。
 どうして、無理にでも真実を聞かなかったのか。
 後悔の念。それは自分を戒め、傷つける。
 彼女の幸せそうな笑みだけを見て、勝手に幸せなんだと思い込んでいた。
 秘められた真実は重く、笑えるようなものではない。だとすれば彼女はずっと、俺に会った時からずっと表面上だけの微笑みを浮かべていたと言うのか。
 きっと辛かっただろう。 俺は何故それを見破れなかったのか。否、見破ろうとしなかったのか。
 あり得ない話だが、もしもあの頃の自分が目の前にいたら迷わず殴っていただろう。今だって自分で自分を殴り続けたい気持ちだ。
 込み上げてくるこの感情は何なのだろうか。後悔か? 怒りか? 違う。哀しみだ。そして自分自身への憎しみ。
 息が詰まり、目頭が熱くなった気がした。何故か目を開けていることが出来ずに伏せる。伏せられた瞼は本格的に降り出してきた雨によって冷やされた。
 横にいたセリアが黙って服の袖を掴んだ。その小さな頭に自分のもう片方の手を乗せてやる。
 ああ、そうか。俺よりもセリアの方が辛いかもしれない。
 自分が何も知らなかったせいで、セリアも母親のことをはっきりと知らないのだから。
 袖を掴む手にだんだんと力が入る。爪までが白くなるくらいに強く、震えるほど強く握られている。力の入った腕は子供特有の膨らみをもってはいるが、この手で叩けばすぐに折れそうなくらい華奢で、酷く頼り無く見えた。
 彼女の手の震えは腕を伝わり、やがて身体へ。震えるのは何故か。それは辛さを表に出さないように必死に堪えているからだ。
 俺は、背負わせ過ぎたのかもしれない。自分が不甲斐ないせいで妻───リオラは消えた。そして残された娘は同じように辛さを───心の痛みを背負い、生き続けている。
 自分が支えていると思っていたものは、決して自分に支えられていなかったのだ。
 情けない。今さらになって気づき、そして後悔している。どうしてこうも自分は察しが良くないのだろう。
 自分の脳天気さと鈍さに呆れ、嘆いた。
「それで、あいつは集落を出たんだな?」
 クロムは雨雲しかない空を見上げたまま呆然と訪ねた。セリアはそんな父親からは慣れようとせず、より一層手に力を込めた。
「はい」
 悲哀が込められた声でルエルが返事をした。彼女の横ではこの空気に耐えられないのか、ロウが深呼吸のように息を吸い、吐き出している。目は口ほどに物を言う、と言うが、ロウは尚更考えていることが分かりやすいだろう。目はどことなく伏せられ、哀れんでいるような表情を作っている。
 四人から少し外れて話を聞いていたルイドも、眉を下げ、空を見上げていた。
 誰も何も言わなかった。
 ただ、刻一刻と時間が過ぎていくだけ。
 そんな中で、あの毒使いの男の叫びが聞こえてくる。

「人ではない。化け物! 俺を呼ぶ声は全て、化け物! 認めない……誰も認めやしない……人間として。お前なら分かるだろ、悪魔あぁぁぁ!」

 それは端から聞くと悲痛だった。
力のこもった手からは血が流れ、顔は引きつり、対峙している時に薄々と感じていた殺気を放っている。
 あの男も、哀れなのかもしれない。
「……悪かったな」
 クロムが突然、三人を見ていう。
「どうして大将が謝るんですか」
「いや、な。俺が馬鹿だった分、お前達は今まで、あいつの思いを背負ってきたんだ。そう考えるとな。俺が背負わなきゃいけねえ分までよく背負ってくれたな」
 話す分だけ、クロムの口調は重苦しくなっていった。
 多分、自分が背負うことが出来なかったことに責任を感じているのだろう。夫婦だから尚更そう感じてしまうのかもしれない。
 そんなクロムを見兼ねてか、ロウが横から口を挟んだ。
「大将」
「ん?」
「そう言う時は『悪かったな』じゃなくて、礼言うもんだぜ。『ありがとう』ってな」
 目を反らしながらロウは言う。
 いつものような笑いが含まれた言葉に少しだけ気が休まった。
「ああ。……ありがとな」
 そして自然と、そう口にしていた。
 この声がリオラに届くのなら、どうか謝りたい。単純でどうしようもなく愚かだった自分がいたことを。そして礼を言いたい。
 一緒にいたあの時が、幸せであったことは確かなのだから。
 残された娘がいることで、自分は確かに支えられているのだから。

 今、どこにいる? リオラ。

 

 

 獣狩り師達が話す中、男はただ悪魔へ向けて怒りをぶつけていた。
 ───この感情をどうすればいい? この激情をお前は分からないのか。否、分かっているがどうして何も感じない? どうして苦痛を感じないんだ? どうして忘れられる。
 疑問はもう言葉として現れることはない。悪魔には否定された。言ったところでもはや何も答えは返ってこないのではないか───狂い叫びながら悪魔に向かって行った男は、完全には狂っていなかったのか。そんな考えが頭に浮かんでいた。
「消えろ、今すぐに!」
 叫びと同時に毒を纏った手が伸びる。けれど手は空を切るだけ。チィ、と舌打ちをすると、そのまま身体が風に溶けるように消えていく。
 さすがに予想外の事態だったのか、レリックは一度動きを止める。周りを見渡すこともせずに、ただじっとその場に佇んだ。
 上空からバサリと音が聞こえ、レリックは瞬時に顔を上げる。そして向かってきた鋭い爪を避けずに左腕で受け止めた。
 衝撃が伝わり、倒れないように踏んばった。足元の砂がジリリと音を立てたのと同時に腕が締め付けられる音も耳に入ってくる。
 相当な力で締め付けられているはずなのに、レリックは痛みに眉一つ動かさない。
 レリックの左腕を締め付けているもの。大鷲は片言ながら、人語で話した。
「何故ダ? 何故オ前ハ俺ヲ止メヨウトスル?」
「頼まれただけだ。それ以外に理由は無い」
「ナイ、ダト? ソンナ訳ガアルモノカ」
「普通はそうかもな」
「オ前ハ普通デハナイト言ウノカ」
「私が普通ではないことは、既に知っていたと思っていたが?」
 いつものように平然とした表情で、だがどこか冷たい瞳でレリックは言った。その答えに大鷲はしばし黙り、爪にさらに力を込めた。
「悪魔、オ前ノ考エハ、ワカラナイ」
「分からなくていいさ。人によって思考は違うからな。もっとも、分からないのが普通かもしれない」
 さも“当たり前”といった様子でレリックは答え、腕を振った。離れた爪が袖をわずかに破り、地面に叩き付けられる前に大鷲が翼を広げて飛翔した。
 それを目で追いながら、レリックは言う。
「何せ私は“悪魔”だからな」
 ふっと口元だけで笑ってみせる表情は大鷲となった男の背筋を一瞬だけ凍らせた。
 すると集中が切れ、魔法の効果が切れ始めたのか、大鷲はゆっくりと地面へと降りてきた。声も機械的なものから厚みを増して男の声に戻りつつあった。
「ドウシテ、オ前は平気ナンだ」
「何がだ?」
「悪魔トイウ呪ワレタ名を、ナゼ甘ンじテ受ケ入レていられる」
「……慣れ、だろうな」
「慣レ、だト? 笑わせてクれる! 慣レることなど出来るのか?」
「私は出来たさ。普通ではないからな」
 淡々と答えつつも、皮肉、いや自嘲をする。それはまるで自信に満ちているような、達観したような表情にも見える。それが男の疑念と激情とぶつけようのない怒りをさらに掻き立てた。
 完全に人間の姿に戻った男は、膨れ上がる感情を押さえようと、痛む左胸を掻きむしるように服を掴む。
 何故だ。何故お前は───
「何故お前は……平気でいられる……」
 何度目の問いかけだろう。答えはきっと同じ。そんな事は分かりきっているのに、どうしても問わずにはいられない。
 幼い頃の記憶では、自分はまだ幸せだった。
 けれどある日を境に周りは一変した。
 変化を作ったのは自分なのに、その変化を受け入れられず、ただ自分は問うしかなかった。返ってきた答えに疑問を感じずにはいられなかった。いつの時からか、殺意や怒りを。激情を覚えた。
 ───ああ、あの時から何も変わっていないのか。
 身体と精神に染み込んだ激情と刻み付けられた傷。身体の傷はとうの昔に癒えたが、精神の傷だけは未だに抱えている。だから今こうして故郷に立ち、自分は狂い笑い、狂い叫んでいるのだろう。
 何故か唐突に理解した気がした。
 こんなことをしたところで、昔、自分を蔑み罵った者たちやその身内を殺したところで何も変わらないのだと。
 変わらない、と言うのは適当ではないかもしれない。
 復讐。それをしたところで昔の戒めを解くことが出来ず、過去を引きずり呪っていた事実は変わらずに自分を纏い続けるのだろう。それどころか逆に虐殺の罪と言う名の更なる戒めが増えるだけだ。
 ───悪魔よ。お前はそれを分かっていて止めたのか?
 その言葉を口に出すことはなかったが、答えは自然と分かっていた。
 ───そうか、ならば。
「ならば、一体何の為に……」
 ───何の為に、自分は生きてきたというのだ。
 復讐することを糧として生きる決意をしたあの時。
 あの時、既に自分は間違った選択をしたのだろう。
 ───悪魔よ、何故お前は平気なんだ。
 そう問えば悪魔はこう答えるのだろう。
「普通ではない。悪魔だからだ」と。
「……馬鹿か、俺は」
 耳を澄まさなければ分からない程の呟きだった。
 元を辿ればあの頃の自分が愚かだったのだ。自害する道を選んでいれば、こんな思いをせずに済んだだろう。何故自分はその道を選ばなかったのか。
 違う。あの時は選べなかったのだ。
 これは悪魔の伝承のように魔法使いに課せられた呪いだろうか。そんなことなら、こんな思いをするくらいだったら魔法使いになど生まれたくなかった。
 けれどそれも今日で終わりそうだ。今ならきっと……こんなことを考えるとは、やはり自分は狂っているのだろうか。急速に冷静になった男の脳裏をそんな疑念が通り過ぎた。もしかすると冷静になったわけではなく、静かに狂い続けていたのかもしれない。
 男はゆっくりと遠くにいる獣狩りの一族の方を振り返る。その中の一人を特に凝視していた。
 ───やはり血は、間違いない。過去に託された言葉を思い出す。彼女が自分に向かって言った言葉を。復讐を果たす? 託す? 何を? 言葉を。今、自分が取るべき行動は何か。それは、そう───そんなことを考えながら、男は獣狩り師たちへ向かって急速に近づいていった。
 レリックもそれを止めようと後を追った。

 

 

 ───母さん、母さん。今はどこにいるの?
 届くことのない声を。姿の見えない母に向かってセリアは呼びかける。
 ───母さん。
 返事は返ってくるわけが無い。けれどどうしても止めることが出来ない。
 ───母さん。
 ふっと、視界が霞んだ。
 ───母さん。
 何も聞こえてこない。
 ───母さん。
 ───どうしたの、セリア。
 驚いた。
 姿の見えない母から返事が返ってきた。
「か、あ……さん?」
 セリアはいつの間にか閉じられていた目を見開いた。その光景は、とても懐かしいものだった。
 周りには、組み合わせた木と布で出来た単純な家が並んでいる。傍らには小さな花。ところどころを芝で被われた土の地面に、川のせせらぎ。
 それは自分の住んでいる集落だった。
 彼女はその光景をどこかで「おかしいな」と思ったが、それもすぐに忘れた。
 目の前には、母がいた。
「母さん!」
 ほとんど突っ込んで行く形で彼女は母に抱きついた。
 そんな彼女を母はしっかりと抱きとめ、優しく頭を撫でる。
「元気にしていた?」
 懐かしい。
 優しい声。聞きたいと願っていた声。それが今、ここにある。
 優しい温もりも懐かしい微笑みも、それは間違いなく母のものだ。
 夢だろうか? そんなのどうだっていい。
 今、確かに母はここに存在しているのだから。
「母さん」
「どうしたの?」
 くすくすと笑いながら、母は娘の頭を撫でる。
 懐かしい、本当に。
「母さん、どこに行ってたの?」
「内緒」
「ひどい! ずっと待ってたんだから」
 拗ねて頬を膨らませると、母は柔らかく笑う。その笑顔を見ていると本当に幸せな気分になる気がした。ちゃんと覚えてないけど、小さい時はこうして母さんと、それから。
 ───あ、れ? そういえば、父さんは?
 セリアの脳裏に一瞬浮かんだ考えは、母の声によってすぐにかき消されてしまう。
 名前を呼ばれ、セリアは上を見上げる。
「良い子ね、セリア」
 穏やかな笑みで褒められたことにくすぐったさを感じて、母の腕の中で身を捩る。母はゆっくりと手を伸ばし、娘の頭を撫でようとした。
「だけど」
 頭を撫でようとした母の腕が宙で止まった。
「母さんを助けてはくれなかったのね」
 その言葉の意味が理解できなかった。
 先ほどまで優しげだった母親の声音が変わり、共に変わった光景にセリアは目を見開いた。
 母の手が、腕が、融けている。
「ほら、良く見て。人の手じゃないみたいでしょう?」
 肉が融解し始めている腕を母は掲げた。
 何が起きているのか理解するのに時間がかかった。
 やっと出した声は、震えていた。
「かあ、さ」
 べちっ、と耳元で音がした。
「な……」
 何、と問おうとした。だが目を動かさずとも分かる。それは母の手が自分の頬に添えられているからだ。大きめの瞳を細め、慈しむような表情で娘を見るその姿は一見すると優しく、穏やかな母だろう。
 けれどその手は。奥にある目の色は。
 つうっと頬を伝うそれは、顎まで来ると下に落ちる。地面へ落ちる前に右の掌で受け止め、セリアは右手を目の前に持ってきた。
 ───なに、これ。
 血。そして血よりもどろりとした赤いもの。肌色のそれは。
 ───これは、なに。
 鼻を突くのはつんとした匂い。それはどこかで嗅いだことのあるものだ。とてもではないがいい匂いとは言えない。次第に震える手。腕を伝って震えは大きくなる。震える喉。声が出ない。見開かれた目。その目は映さない。何も映さない。せめて私の目だけでも何も映さなければ。そうであればよかったのに。この時ばかりはそう思った。
 ───かあさん、こ、れは。
「え、あ」
「セリア。どうして母さんを助けてくれなかったの?」
 優しげに問いかけるその声は、母の声。けれどどうしてか。いつもとは違う気がする。身体の奥から感情が沸き上がってくる。相変わらず喉は震え、言葉を上手く紡ぐことは出来なかった。
「た、助け」
「そう。助けてはくれなかった。あなたも、あなたのお父さんも」
 添えられてた手に力がこもった。
 ───いつもの、いつもの母さんの手じゃない。
 記憶の中の母の手は暖かく、柔らかい。けれど今感じているのは硬い感触。視界の端に見えるのは、肌の色ではなく、白。
 目を動かした。
 悲鳴を上げそうになった。
「か、あさん、ほねっ、が……!」
 大好きだった母の手は、既に骨と化していた。肘から先が白く細く伸びて、その先は自分の頬に添えられている。間近で見たそれは作り物のように思えたが動いていた。間接が見え、それが軋む度に頬を白い手が這う。
 その感触を恐ろしいと思った。
「こんな骸の手になっても、私はすぐには死ねなかった」
 母の声には、今まで感じたことのないような“おぞましさ”があった。獣狩りの時の恐怖よりも大きいかもしれない。
 ───おかしいよ。どうして母さんを“怖い”と思うんだろう。
 ほとんど混乱していた。何故母がここに居るのか。それも確かに気になったが、どうしてこんな事態になっているのかが理解できなかった。
 そして先ほどの言葉の意味を問うでもなく、母は強い目で娘を見据えて言った。
「セリア。私は、殺されたのよ」
 あまりにも唐突に教えられた。
「嘘だ」
「どうして?」
「だって、母さんは、ここにいるじゃない」
 手を伸ばし、母の顔に触れようとした。けれど母は娘の手を振り払う。その傍から母のもう片方の手も、セリアが触れようとした頬も少しずつ融け出した。
「どうしてこの手が融けているか、分かる?」
「わ、わからない……母さん、どうして」
 どうしてこんな事になったの? 問う前に、またも母は娘に教えた。
「いい? セリア。こうしてね、母さんは死んだの。少しずつ少しずつ融かされて……」
 溶け出した頬から白い歯が覗いていた。あまりの光景に衝撃を受け、声が出ない。
 優しく微笑んでいた母の顔が崩れていく。私を睨み付けるように冷たい目をして。
 母さん、どうしてそんな冷たい目をするの?
 どうして。どうして? ねえ、おしえて。
 先ほどと変わらない声で母は言った。
「醜い骨となったのよ」
 その瞬間、ザァ、と音を立て、砂のように母の身体が崩れた。
 母の着ていた服と、髪と、そして───
「……え」
 何が起きたのか。混乱しつづける頭で考えた。
 ───母さんは。母さんはどこにいったの?
 辺りを見回した。けれど母の姿は見当たらず、先ほどまで集落に居たはずが、いつのまにか見ず知らない砂漠に景色が変わっている。
 倒れている骨から母の声は聞こえ続けた。
「セリア。どうして私を助けてくれなかったの」
 シューシューと肺が無いのに呼吸音が聞こえ、ギギッと音を立てて骸の手がセリアの足を掴んだ。ひっ! と短い悲鳴を上げてセリアは下がろうとしたが骸の力は強く、離れない。彼女はそのまま座り込んでしまった。
 骨だけとなった顔なのに恐怖を感じたセリアの表情を見て、骸が睨んだ気がした。
 先ほどよりも低くなった声が聞える。
「セリア、よく聞きなさい。私は殺された。あの男によって。そして私が死んだのは、助けてくれなかった、あなたのせい。あなたが殺したのも同じよ」
「…………わ……私が? 私が母さんを殺した?」
「その罪を償いなさい。そう、あの男を殺しなさい。殺して殺してしまえ! 殺してその存在を滅するのよ。そう、薬使いの血を持つあなたはあの男を殺さなければならない! 殺して、その血肉を一族に捧げなさい。そうすればあなたは償いができる。仇を取って。母さんの為よ」
「……母さんの為?」
「そう、母さんの為」
 骸から聞こえてくる声は、うっとりと悦に入るような表情を思わせた。けれど同時に命令をされているような。
 なんだろう、これは。
「セリア。私の可愛い娘……。母さんの言うことを聞けるわね?」
「かあ、さん?」
 そして骸がカタカタと音を立てる。セリアの足を掴んでいた手はいつの間にか肌の色をしていた。それに気をとられてるうちに、骸はいつのまにか母の姿になっていた。
 母の身体は起き上がり、いつの間にか魔法使いのローブを羽織っている。その目前にいるのはあのローブの男。
 男はローブの奥でくくっ、と笑うと、右手を前に差し出した。母の身体が跳ね飛ばされる。地面にぶつかる、と思わずセリアは受け止めようとした。が、母は捕まえられずに身体をすり抜ける。
 その倒れた身体に追い打ちをかけるように男は手をかざした。
 地面の上で跳ね上がる身体。それを支えようとしても、どうしてもすり抜けてしまう。
 男の右手が母の首にかかった。少しずつ体重を乗せて、男は母の首を絞める。母の顔が苦痛に歪み、セリアは男の手を外そうとした。けれどそれもすり抜けてしまい、セリアは地面にぶつかった。
「母さん!」
 助けられず、どうしようもなくて叫ぶ。
 男は首を絞めるのに飽きたようで、苦しんでいる母の頬に手を伸ばした。その手から霧が出ている。
 その色は、緑───。
 母が空いた手で男の腕を必死に掴む。するとその手は嘘のように、骨を残してドロリと融けていった。
 断末魔が聞こえる。けれど止めることが出来ない。
 母の頬に男の手が触れた。そこも一瞬のうちに融け、歯が露出する。
 次に喉に手がかかった。喉も一瞬で半分ほどになり、叫びは聞こえなくなった。
 母が血反吐を吐いた。こちらからは全く触れられないのに、何故かその血はセリアにかかった。
 融解した肉と皮膚が身体を伝って地面へと流れ、砂に吸い込まれては伸びる。やがて小さな小川のように伝ってきたそれが、地面に座り込んでしまったセリアの膝につく感触があった。膝の辺りにあるそれに手を伸ばす。何故かそれだけは触れられた。
 ドロリとしていて、腐った匂いが鼻を突く。
「ぁ……」
 目の前で起きている光景はセリアにとって十分すぎるほど凄惨な光景だった。
 目を反らしたいのに、閉じたいのに、身体は凍り付いてしまっていた。
 少しずつ融かされていく身体。止めたいのに止められない。母に触れられない。
 まさに悪夢だった。
 やがて身体が半分ほど融けると、男の姿は消え、母がこちらを向いた。そして先ほどと同じようにセリアの足を掴む。どこかぬめるような感触に、鳥肌が立った。
 恐怖と悲しみが胸の内を占めてしまっていて、どうすればいのか分からない。喉を失ったはずの融けかけた母が言った。
「よく覚えておきなさい……。母さんを殺したのは、あの男なのよ!」
 その言葉を言い放った途端、残っていた身体が砂と成り果てて、母は骸になった。
「ぅ、あ……」
 母は死んだ。死んだ。殺された。融かされて殺された。
 誰に? あの男に。
 身体が叫んでいた声が、ここではっきりと聞こえた。滅せよ、と。
 滅せよ? 何を。あの男を。
 そうだ、私はあの男を殺す為に逃げなかったんだ。母さんの敵をとる為だったんだ。
 滅せよ。殺した者を。
 あの男を。

 

 呪われた言葉と魔力が、精神と身体を侵食していく。

 

「…………あ……」
「セリア?」
「あ……ああああぁぁぁぁぁぁ!」
「なっ、何だ!?」
 クロムの傍に居たセリアが突然叫び声を上げた。クロムはもちろん、ロウは思わず声を上げ、ルエルも目を見開いて驚いた。
 近くで魔法使い二人の様子を見ていたルイドがこちらを振り替える。
 今まで叫ぶことが出来なかった分までも叫んでいるかのように、セリアは叫び続けた。
「ああぁぁぁぁ!」
「おい、セリア……セリアっ!」
 虚ろな瞳をしたまま、空を見上げ叫び続ける娘の肩をクロムは掴んだ。何度も名前を呼ぶがそれすら聞こえていないようにセリアは叫び続けた。
「あ、ああああ、あぁぁ……!  はっ……」
 大きな叫びが止み、息を吸い込んでセリアは耳を塞ぎ下を向く。
 クロムは突然発狂した娘に声をかけ続けるが返事は返ってこない。
「ぁ、あぁ、あああ……うぁ……」
「セリア……」
 かける言葉が見つからずに、クロムはただ娘の肩に手を置いた。

 

 もうすぐ。もうすぐ。これで私の思い通り。

 

 セリアの発狂が止んだ。
 何事かと驚き、魔法使い二人から目を離していたルイドは前を向いてはっとした。
 一人が、こちらへ向かって近づいてきていた。
 それに気が付いたが、ルイドは捕縛用の道具を主に使用している。罠を張って獣を捕獲するタイプの人間だ。それ故に男への対応が出来なかった。
「やばっ!」
 男がこちらに向かってくることに気が付いて、獣狩り用の剣の柄に手をかける。だが剣の扱いに慣れていないせいで戸惑ってしまった。さらに男の移動してくる速さは並みではない。獣狩り師や獣よりも速いのではないかと思う程だ。まるで風に飛ばされているように。
 剣を抜き取った時、男は目の前にいた。驚いたルイドは剣をわずかに引いてしまい、振り下ろしたときには男は既にいなかった。
 横を通り過ぎたのか? ルイドがそう思っていると地面が陰る。男はルイドの上を跳んでいたのだ。
 しまった、と思った時には、事態を察知したロウが二対の短剣を構えて地面を蹴っていた。自分を飛び越えた男が獣じみた動きで着地すると、同じく姿勢を低くしたロウが男に向かって逆手に持った短剣を交差させ振るう。
 ところが男は先ほどと同じように跳ね、短剣はローブの端を切り裂く。ロウが舌打ちをして自分の後方へと振り返った。
「待ちやがれ!」
 地面へ降りた男に向かってロウはしゃがんだまま蹴りを繰り出した。それも後ろに目でもあるかのように男はあっさりと避けてしまう。
 その上から光るものが落ちてくる。気が付いた男は腕を交差させてそれを防いだ。
 腕に突き刺さるのは棒状で羽根の付いた───矢だ。交差させた腕の奥で男が周りを確認すると、小型の弓を持った女がいた。
「ナイスフォロー、ルエル!」
 ルイドが叫び、捕縛用の縄を巧みに操りながら男の足を取った。そのまま引いて体勢を崩そうとするが、その前に男が手刀で縄を切る。切る瞬間に姿勢が低くなった男へ向かってロウが右手を伸ばし、渾身の突きが繰り出された。それを男は手を使って受け流す。男の右側から、もう一本の短剣の横薙ぎが向かってきた。後ろへ頭を引いてかわす。
 空いていた足でロウの腹へ蹴りを放った。相手の攻撃に気付いたロウは後ろへ身を引き、男も同時に後ろへ飛び退いた。
 男の耳元をひゅ、と何かが掠めたかと思うと、前にはさきほどの矢が飛んでいた。
 振り返って飛んでくる矢の何本かを叩き落とし、残りを屈んで避ける。次の瞬間、左腕に衝撃が走った。見てみるとそこには一本の短剣。
 それに気を取られているうちに上空から近づいてくるロウに気付くのが遅れた。
 ザク、 と倒れた男の耳元で短剣が音を立てた。
「終わりだ、毒使い」
 そう宣告をするロウ。しかし、毒使いと呼ばれた男はそっと手をロウの肩へ持ってくる。異様な空気が集まってくるのを感じ、身を仰け反らせる。が、それよりも早く男の掌から見えない力───風による衝撃波───が発生し、後方へはね除けられる。ロウの身体は吹き飛ぶというより、地を這うように低空を飛び、背中から地面へ激突した。衝撃で息がつまり、一瞬頭が白くなった。
 それを確認せずに跳ね起き、 狂気じみた男は───クロムとセリアへと近づいて行った。
「大将ぉ!」
 肩を押さえながらロウが叫ぶ。
 ルエルが弓を捨て予備用の短剣を抜き、男の進路を遮ろうと走り出した。
 ロウの叫びを聞き付けたクロムが腰に差した剣の柄へ手を伸ばし、前を見る。男は眼前まで迫ってきていた。剣の柄に手をかけ、鞘から抜く───はずが、クロムの目は驚きに見開かれ、身体が硬直した。
 まさか。
 そして、男はセリアに近づいた。
 けれど攻撃する様子もなく、叫び終えた彼女の耳元でこう呟いた。
「君の母親を殺したのは───僕だよ」
 言い終えた男の身体はセリアの横で地面へ崩れ落ちた。

 

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