第2章《獣狩り》
5.【感情】
目の前に霧がかった村が見えた。だが周りの景色ははっきりとしている。その霧は村だけを包み込むようにして存在しているのだ。
霧の色も異常。普通なら無色透明なはずなのに、微妙に緑がかっている。来る途中で滅してきた獣たちの成れの果て───その毒と同じだった。
「あそこだ、って何だこれ!?」
横にいたクロムが大げさに驚く。そこまで驚かなくてもいいだろうに、というくらい。フォーラルステイトを出る時といい、彼は意外と天然なのかもしれない。
レリックがそんな自分の考えに呆れていると、クロムが前に突き進もうとした。
「待て」
「そんなこと言ってられねぇ! やべぇ気がする。早く行こう」
そしてまた前へと進もうとするクロムの腕をレリックは掴んだ。
クロムは振り返って言う。
「何で止める!」
「少し落ち着くんだ」
「んなこと言ってる場合じゃねぇって! やばいんだよ!」
さっきから言っていることが滅茶苦茶だ。
クロムの言う『やばい』とは一体なんなのか、その理由も説明する暇がないようだ。けれどレリックは何となく分かっている。また獣狩り師としての勘が働いているのだろう。レリック自身もさっきからずっと嫌な“気配”を感じていた。
人には人としての“個性”があるように、魔力にも独特の“個性”がある。それ故にこの村を包んでいる霧から感じられる魔力もまた独特だった。精霊魔法でもない。魔術でもない。
───これは恐らく自分の魔力のみで形成された魔法だ。それに……。
レリックはその力を明確に感じているからこそ、クロムを止めるのだった。レリックはいいとして魔法を扱えないクロムの場合、下手をしたら助けに入ったところですぐにやられる。
「分かったから落ち着くんだ。あんたが慌てたところで解決しないだろう?」
「とにかくやべぇんだっ、早くしねぇと、って進まねぇ!」
「急ぎ過ぎもよくない」
「この状況でんなこと言ってられねぇよ!」
「せめて聞く耳を持て」
呆れ返ったレリックがそう呟くが、それすらも聞こえているか怪しい。そして急ごうとしている割にクロムは一向に進もうとしない。いや、進もうとしているが進めないのだ。レリックがいつの間にか魔法を使って止めていたから。
「いいか? あんたは恐らく、この気配を感じ取ってやばいと思っているんだろう。だがな、これはあんたが急いで行ったところで逆にやられるぞ」
「だったらおめぇさんを連れてきた意味がねぇじゃねぇか! ほら、一緒にいくぞ!」
クロムはそう急き立てるが、レリックは溜め息を一つ吐いた。その紫の目には明らかに呆れの色が見えている。だが、一瞬閉じたかと思うと、また強い光を宿した。
「待てと言っているのに。心配なのは分かるが、少し時間をくれ。霧を晴らして中にいる奴を押さえる策も考える」
「あー、もう、分かったから早く頼むぞ!」
「ああ」
そう返事をするレリックに、クロムは少し不安になった。中にいる娘も心配だし、仲間もどうしているだろうか。
何よりもさっきから感じているこの気配。何と言うか“殺気”らしいものが感じ取れた。それに、どこかで感じ取ったことのある気配。
いつのことだったのだろう。思い出せない。
だがどこかで会ったことのある気配だ──────霧は風を使って晴らすか。いや、それでは流れて行くだけだ。被害を広げないように止めておかないといけない。ならば、流した後に防護壁を応用して広げないようにするしかない。あるいは使い手を。
レリックとしては、それは避けたかった。魔力が強く、普通の魔法使いを凌駕している高等魔法使い。いくら相手が魔法使いといっても、ねじ伏せるのも殺すのも簡単だろう。だからこそレリックは避ける。
殺したところで何になる? 悪人だから。それだけの理由で殺すのはあまりにも理不尽だ。そう考えているからこそ。
この世に完全なる善人なんて居ない。人は生きている限り、良くない行いの一つや二つは必ずする。例えその人物にとって“良いこと”だと思えても、他からしたらそうではないかもしれない。
人が非難し、言う“悪い行い”というのは、その延長線上にある。
分かりづらいかもしれない。簡単に言えば、大げさに大きい行いは、人に批判されるのだ。逆に誰かが批判すればその時点で悪い行いとも言える。
例えば、どうだろう?
いたずらを仕掛けて母親に叱られる。これはささいな“悪い行い”だ。けれどそこで終わり。いたずらをして怒られた。それだけで済む。
そして同族を殺したりしてしまう。これはとても大きな“悪い行い”として扱われてしまう。それは何故か? 非難する者が多いからだ。深い理由なんて無い。
結局のところ、周りが騒ぎ立てるかどうかの問題なのだ。
誰もが悪い行いをしているにも関わらず、周りは自分のした行いとその大きさを比べ、それを“悪いこと”だと決めつけてしまう。
犯した事の大きさ。そんな理由で悪い行いかどうかを決めつけ、責め立てるのは理不尽だと思う。
───もしかしたら、そんな考えを持っている私の方が理不尽と言えるのかもしれないが。
力もある程度押さえなければならないかもしれない。
向こうの魔法使いの力量がはっきりと感じ取れない。もしかしたら自分と同じ高等魔法使いかもしれないし、逆に最近になって目覚めたばかりの魔法使いかもしれない。けれどこの魔法の扱い方。恐らくある程度熟練した者と見て間違いないだろう。
それよりも気になるのは“殺気”。明らかにただの『魔力片』とは違うピリピリとした雰囲気だ。
時と場合によって、使い手の感情は魔法と同調する。そして使い手次第で魔力の気配も変化する。精霊魔法、詠唱魔法などこの世に様々な魔法は存在しているが、普通ならここまで“負”とも言える感情は魔法に現れない。
よほど想いが強いのだろう。そしてそれは異様、とでも言えばいいのだろうか。
───さて、一筋縄ではいかなそうだ。
レリックは再び思考を巡らせた。それはわずかな時間だったがクロムにとっては長く感じられたようだ。まだか、まだか、と何度も急かす。レリックはレリックで以外と律儀に答える。そのせいか、レリックは途中で何度も思考を中断させられて、待っている時間が余計に長くなっている事にクロムは気が付かない。
とりあえず、行ってみるしかない。
結局、結論は一番単純なものに辿り着いた。
「よし」
「おお、いいか!」
「今から毒霧を除く。いいか? 一人で向かって行こうとするなよ」
「おう!」
その威勢の良い返事がなかなか信用出来ないのだが。
そんな考えなどクロムは知る由もないだろう。
いざとなったら魔法で止めるしかないか。考えを切り替えて頭の中に詠唱呪文を思い浮かべる。
身体の中の魔力が徐々に右手に集まり出した。
防護壁は自分だけの力で作らなければいけない。吹き飛ばす為の風は精霊魔法を使うか。
左手に代価となる魔力を集める。
精霊魔法と言うのは、この世界に存在している精霊の力を借りて行う。
自分の魔力を代価として精霊に引き渡し、逆に精霊からは精霊自身の力を貰う。魔力は休むなりなんなりすることで回復をするのでいい。だが一方的に精霊から力を得ようとすると、精霊自身が消滅する恐れがある。これは魔法使いとしての一般常識だ。使い手の魔法使いが魔力を引き渡す事で、精霊は失った自分の力を魔力で補い、自分の力にする。
最も、この世界では精霊の力、人や動物、そして獣などが生きる為に必要な精力も、全ては循環していると考えられている。精霊から力を一方的に引き出そうとすることは不可能だ。引き出そうとすればその分、自分の魔力を吸い取られることになる。
精霊は世界を構成しているモノ。だからこそそんなことが出来るのだ。人である魔法使いでさえもそんなことは出来ないだろう。
左手に魔力が集まったのが分かる。これくらいでいいだろう。
そのまま放るように手を動かすと、一瞬魔力が無くなり、今度は補われるかのように風の気配が集まった。
これで取り引きは終了。後の使い道はその魔法使いによる。
「さて」
一言そうポツリと呟いてから、レリックは風の精霊魔法の宿った腕を振るう。すると風が吹き、毒霧は一気に村から引いていく。そして風を操ることによって流れた毒霧を、今度は右手に宿した自分の魔力を使って一か所に集めるように操る。目に見えはしないが、大きな防護壁を張ってそれを縮めているのだ。
操っている間、レリックの瞳は一点に集中していた。いくら魔力が強く手練ているとは言え、集中しなければすぐに毒霧を散らすこととなる。もし散らしたら辺りにいる動物、ましてや近隣の村までもが影響を受けるだろう。二次被害を出すのは後々面倒だ。
その隙を狙って、後ろから獣が現れた。
半身が融けかけていて、その姿はまるで腐乱した屍。吼え声は悲痛。腐っているのではないのかと思われる場所からは、微かに緑色の煙が上がり、じゅくじゅくと嫌な音が聞こえた。流れるのは黒みがかった緑色の液体。それが蒸発、と言うより、毒霧になって空中に上がっているのが目に見えて分かる。半分赤も混じり、それは砂の上に流れてはすぐに染み込んでいった。ところどころに見えるのは、もはや毒と化した肉と、毒霧に濡れている毛。
きっと元は普通の動物だったのだろう。だが魔法をかけられた事によってこの姿だ。気味が悪いが、訳を知っている者にとって同時に同情も誘う。これを造り上げた人物は血も涙も無いと言うのか。
それが後ろから迫ってくるが、レリックはその場から動かない。気が付いていないのだろうか。
「危ねぇ!」
毒霧が引いていくのを見ていたクロムがやっと獣の存在に気が付いた。勘が良いにも関わらず、今はそれどころではなかったのだろう。
クロムの叫びにも反応せずに、レリックは前を見続けている。
そしてクロムが長剣を抜き、獣に向かって一閃。
獣は避ける間もなく横へ向かって飛ばされた。半分融けかけていた身体はザザザ、と砂の上を滑り、砂埃が舞った。
砂埃を手で掻き分けながらクロムが近づく。獣が飛ばされた後に点々と、緑と黒と赤の跡が残されていた。
獣の身体は、動かなかった。
「……やっちまったなぁ」
クロムはボソリと呟いた。
獣狩り師は獣を狩る者だ。しかし獣をただ殺すわけではない。クロムは特に獣を殺すことに抵抗を持っている。それ故にこんな姿になった獣、動物を殺すのもどこか抵抗を感じるのだ。
今のは自分が殺した。それもあっさりと。
どこかで自分の力にも恐ろしさを感じる。
「今のは殺すしかなかっただろう」
そんなクロムの考えを察してか、背後でレリックが言う。
確かにレリックから見る限り、そうする他に手立てはなかった。
ああなってしまったら魔法を使って治すわけにもいかない。もしかすると治せるかもしれない。が、身体の中に残っている別の人物の魔法と自分の魔法が反発して、結果的に死ぬことになるだろう。
そして獣の姿と悲痛な鳴き声。
あれは生かしておいたほうが酷というものだ。
身体の半分は既に死に、全てが毒霧と化すまで生きながらにして徐々に殺される。それでもなお、操られているせいで“敵”に向かっていかなければならない。
痛痛しいその姿では、さきほどレリックに向かっていった時にだって死んでいただろう。風魔法の名残があったせいで、風に弾き飛ばされて。
命は火に例えられる。あの獣の命を火に例えるとしたら、今にも燃え尽きそうな火だっただろう。
獣の身体を見つめて動かないクロム。それからはまだ、赤と緑と黒混じりのものが流れていた。
「行くぞ」
「ああ」
さっきまでの意気込みはどこに行ったのか、やけに落ち着いた声色でクロムは返事をする。だが、目は明らかに怒りの色が見えていた。ただそれは一瞬のことだ。
顔を上げると、村の中に人影が見えた。
その影に、彼はいつものような暢気さで声をかけたのだった。
「おーい!」
*
「大将か!」
「父さん?」
その場に退治していたロウは相手から目を離さずに、そして待ってましたと言わんばかりに。娘のセリアは父親の姿を確認しながら声を上げた。
セリアの視線の先には、いつもと変わりない姿の父親クロムが居た。
ロウの前では、相手をしていた魔法使いが何かに感心するかのような声を上げた。
「来たか」
そう一言。横目で見る先にはクロムではなく、自分と同じようにローブを被った人物が居た。もっとも、随分前から二人が近づいてきていたことに気が付いてはいたが。
「これはまあ、随分と」
ローブの男は言う。自分と同じく頭からローブを被ったその姿はただの旅人だ。感じられる魔力はとてつもない。今しがた相手をしていた仲間が助っ人を連れてくるとしたら、魔法使いと言うことは明白だった。が、まさかこれだけの相手だとは思いもよらなかった。
今までに感じたことの無い質の魔力。そして漂ってくる異様な圧力。
これはまさに───
「悪魔か」
呟くと、魔力を漂わせている相手はフッと顔を挙げた。顔は見えない。が、隠し忘れているのか白い髪が一筋流れ出ていた。光の関係で輝くそれは、悪魔の印である銀の髪。ただの老人という可能性も無くはない。だが足取りはしっかりとしているし、もしも老いぼれ魔法使いを連れてきたとしても自分の相手が出来る訳がない。男はそう高をくくった。
表面上は落ち着いて見えるが先ほどの興奮が覚めやらぬ、といったところか。内面ではとてつもなく狂喜していた。悪魔が来たところで自分にとって都合が良いのか、悪いのか。それすらも冷静に判断することが出来ない。
実際ある面では都合がいい。けれどある面では悪い。半々だった。
「おい、怪我してるじゃねぇか! 何があった」
クロムがローブの男を警戒しながらロウに近づく。
本当なら娘の元に行ってやるべきなのだろうが、これを放っておくわけにもいかない。
確かにロウの左足の出血は布を濡らし、溢れ、地面に徐々に流れていた。よほど流れたのだろう。少し青ざめている。
「ん? ああ。自分でやった……」
「あぁ!? 何やってんだ、おめぇは!」
ロウは辛そうでもなく普通の口調で言うのだった。普段血の気が多い分、今は大分血が抜けて冷静になっているのだろうか。
対し、普段は温厚なクロムが怒鳴る。ロウを案じての行動だ。
クロムはいつも通りの勢いがないロウに違和感を感じつつ聞き、ロウは冷静に言う。
「毒、盛られたから抜いた。……盛られたって言えるのか分かんねーけど」
「はぁ? やり過ぎだろうが!」
「……動いたから出てくんだよ。仕方ねーだろ」
血が抜けて冷静になっているのではなく、貧血でいつもの勢いが無いだけかもしれない。良く聞けば口調はいつも通りだ。こんな風に冷静に怒られると逆に怖いかもしれない。
どちらにしてもロウのいつもの怒り口調は変わっていなかった。
そんな二人のやり取りがされている中、ローブの男はまだローブの人物を見ていた。もはや双方とも警戒をせずに一時休戦状態だ。
悪魔か。さきほどの呟きに返事が返ってきた。
「周りはそう言うな」
他人事のように言うその素振りに何故かおかしさが込み上げてきた。声に鳴らない声を上げ、空を仰いで笑う。その時にフードが外れたが別段気にもならなかった。
その一言で分かるんだ。周りは恐れ、近づかない。疎外され、一人で生きていく。お前もそれに慣れているのが。
声に出しはしなかったが男は心の内で呼びかけた。そう。悪魔と呼ばれるこいつも、また自分と同じなのだ。異種、異分子とされ、恐怖の対象とされる。そして精神の傷を受け、受け入れてもらえずに一人でずっと。
男の思考はまさに“狂喜”に支配されていた。それに気付いているのか否か。ローブの人物───レリックは微動だにしない。
「だから?」
と、唐突にレリックは言った。
悪魔と呼ばれている。だからそれがどうかしたのか? と言う意味合いでの投げかけだ。
それは通じたのか、ローブの男がいつの間にか浮かべていた笑みが消えた。何を言っている? と言いたげな口元。目は隠れて見えないが、人の表情は長年見てきたから口元だけでも分かる。
やがて口元が引き締まった。
違う。苦渋を感じて引きつらせているのだ。何故なのかは知る由もない。
この魔法使いが何故こんなことをしたのかの予想は大体ついているが。
そして男は笑い声を漏らした。引きつった笑いだ。その後、いかにも「自分もそうだった」という意味合いを込めて言葉を紡ぐ。
「はは……。お前も、悪魔と言うだけで迫害を受けたんじゃないのか」
「確かにな」
レリックは否定しなかった。すると再び笑い声が上がる。
何がおかしいのか。狂い始めた男の笑いどころなど分かるわけが無い。
とにかく、今は自分が頼まれたことをしなければならないだろう。
依頼は『見えない獣狩りの協力』。それも原因は目の前の相手だ。この少し狂い始めた相手を一体どうするべきか。
そう思っていた時、目の前の男は突然叫んだ。
「俺がこの村を襲うのも、この村が俺を化け物扱いしたからだ!」
もはや冷静さは失われ、ロウの目の前に現れた時とは口調も全く違っている。あまりにも違いすぎだ。これが本性で、あの性格は造り上げたものだろうか。
レリックが“化け物”と言う言葉に反応した。
「化け物扱い?」
「魔力を持っていただけで、日の光を浴びることも許されず、ずっと牢の中で生かされた。その場に繋ぎ止められ、動くこともままならない。周りには恐れられ、罵られた。母という女からは存在を否定された。父と言う男には殺されかけた。違う、全員だ……俺以外の全員にだ。隣にあるのは常に“死”と“恐怖”だけだった……それ以外に何も無い」そうだ。だから。
だから同じ苦しみを受けさせてやる。
だから俺は、この村を、村人を、邪魔した者を。
───殺すんだ。目の前の男が考えていたことをレリックは明確に感じ取っていた。話からするに、この男がやろうとしているのは“復讐”だ。
なるほど、クロム達はそれに巻き込まれたのか。感じられる殺気は相当なものだし、少々厄介なことになりそうだ。
目の前の男は肩で息をする。濃紺の瞳は爛々と光り、同じ色をした髪は振り乱している。
「お前に分かるか? あの苦しみが分かるか?」
「生憎だが、分かるわけが無いな」
「ははっ。お前も悪魔と呼ばれているのに、分からないのか?」
「さあ」
あやふやな答え方をし、肩をすくめてみせた。それに怒りを感じたのか男は叫ぶ。レリックはただ聞いているだけだった。
おかしな話だが、クロム達からすると男がだだをこねているように感じにも見える。受ける印象としてはまるで大人と子供だ。対峙している二人にはそれほど差があるのだ。獣狩り師が感じ取っている“気配”には。
「なら、お前は今までどんな迫害を受けてきたと言うんだ?」
「他人に教えることじゃない」
「それは教えることに恐れを持っているからじゃないのか? それほど酷い仕打ちをされたのか?」
「さあ。けれど」
一度目を閉じ、男を見据えてレリックは言った。
「勝手な推測はしてもらいたくないね」
二人が対峙している間にロウと娘のセリアと離れていたクロムは少々驚いた。今までレリック自身の事を訪ねてもレリックはあやふやな答え方をしていたはずなのに、今ははっきりと不快感を露にしたのだ。
だが横でセリアが服の裾を掴んできたので、そこで思考が中断した。「ふっ、ははは」
狂い始めた男は笑う。
空気を吸い込むこともせず、腹の底から残された空気を吐き出しながら。
相変わらずその瞳は爛々と輝き、それは獲物を見付けた時の肉食獣を連想させた。
邪魔になっている髪をかきあげ、視界に悪魔を入れる。そいつは冷静な表情と紫の瞳で自分をただ見ていた。自分は一種の興味を持って見ているが、そいつは睨み付けるわけでも、見下すわけでも、観察するわけでもない。自分をただ視界に入れているだけだ。
───これが悪魔か。
伝承で聞く限り、悪魔とはもっと相手を虐げ苦しませるような存在だと思っていた。今まで連想していたものとは全く違う態度に尚更興味が湧く。それとも自分と同じように身体の内に残酷さを秘め、表面上は全く違う人物像を演じているのだろうか───心を閉じているのか。
自分と同じような境遇を過ごしたであろう悪魔を見て、口元を歪め、笑う。
全く持って面白い存在だ。同時に───不快な存在だ。
何故こうも平気な顔をしていられる。
周りには恐れられ、虐げられたのではないか?
それに怒りは湧いてこないのか。
周りは恐れ、なおかつ軽蔑したのではないか?
それに激情を感じないのか。
人として扱われなかったのではないか?
それに人が自分を受け入れる器の小ささに酷く失望しなかったのか。
……気に食わない。
どうしてお前は平気でいられる。
男の怒りの矛先は段々とレリックへと移っていった。本当ならば自分を恐れ、化け物として扱い迫害してきたこの村の人間へのものだったのに。八つ当たりも良いところだ。男はそれに気が付かないほど静かではあるが逆上していた。
「復讐するつもりか? 止めておくんだな」
レリックは男を見たまま言い放つ。口調も命令するようなものではなく冷めたもので、逆に男の怒りを煽った。
「お前に何が分かる」
先ほどまでの問いかけとは全く逆の問いかけ。
ぎりりと歯噛みし睨み付けるが、レリックは動じない。だが目には力が入り、紫色が一層濃くなった。
何だ、その目は。俺を責めるのか。軽蔑しているのか。
男の手には魔力が集まり、身体の周りには霧状の毒が集まる。
魔力の流れを感じ取ってレリックは静かに身構えた。
「止めておけ」
「うるさい」
「復讐したところで何か得があるのか?」
「黙れ。そこを退け。俺は、ここの奴らを殺してやる」
「無理だな。これでも頼まれ事だ。投げ出すわけにもいかない。殺しも良くない」
淡々と答えるレリック。男はそれを濃紺の目で睨んだ。
どうしてだ。どうしてこんなにも理解してもらえないんだ。
どうしてこいつは───俺の心情が分からないんだ。
「お前に……お前には、分からないのか? 殺したい程の相手がいないのか?」
「さあ」
「いる、だろう。一人くらい」
「どうだろうな」
「いるはずだ。思い出せ。お前は悪魔だ。蔑まれたり、恐れられたりしたことがあっただろ? 自分を人外として扱った奴を憎いと思わないのか、殺したいとは思わなかったのか!」
「……忘れたね」
「忘れた?」
一瞬だけ、男の顔に迷いと疑いが走る。だがそれは本当に一瞬の事で、獣のような目でまたレリックを睨み付けた。
もう、どこに怒りをぶつけたらいいのだろう。
「忘れることが出来るのか? お前の憎しみは、それほど軽いものなのか?」
「憎しみか。感情の価値は人によって違う。もちろん、物の価値もな」
「価値、だと?」
「そうだ。自分が大したことが無いと思えば、激情さえも軽く、忘れるものとなる。ようはその人間の価値観と、感情の捉え方だ。私はそう思うが。違うか?」
「……誰が……」
また歯噛みして、手を握りしめた。
先ほど獣狩り師と少し遊んでやった時の魔法の効果がまだ残っているのか。指先が掌の肉に食い込み、爪が皮を切って、ポタポタと血が流れた。痛みは無い。これよりも遥かに酷い苦痛なら何度も受けた。これほどのことでは痛いと感じなくなってしまった。感覚が鈍くなっているのだろうか。
それよりも、悪魔の紡ぎ出す言葉の方が───痛い。
精神的な痛み。それは男にとって突かれたくないことをレリックが的確に突いてくるからだ。
憎しみや、殺意を忘れる? 復讐心を忘れる?
捉え方次第で、忘れる?
ならば。ならば自分が今までしてきたことは何だったのか。
否定されたくない。そんな思いがどこかで生まれた。
この激情と狂気に任せて、全てを壊して消してしまいたい。
俺の生き方を否定するな。俺の存在を否定するな。
憎しみや殺意を忘れてしまったら、今の俺に残るものは───何だ?
「誰がっ、分かるか」
「どうだろう。本当は根底で分かっているんじゃないか?」
そこで一度言葉を区切り、レリックは静かに、かつ、はっきりと言う。「自分のしていることが、どうしようもなく無意味で無謀な事だということを」
悪魔のその言葉を聞いた瞬間、自分の中で何かが弾けた。
それは何だったのか。
複雑な気分だった。感情が入り交じって、自分はどうすればのかも見失いかけた。
怒りか。殺意か。憎しみか。恐れか。狂気か。苦痛か。哀しみか。
「黙れぇぇぇぇ!」
気がつけば歯をむき出し、毒霧をまき散らして悪魔に向かっていた。
レリックの眼前には魔力の籠った手が迫る。
耳元でひゅ、と風を切る音がした。
男の手を寸前でかわし、その目でただ見つめていた。
「お前っ、お前にはっ……」
叫び、風を切り、突き出した手をレリックへと向ける。魔力によって強化された腕力と早さは常人は避けられない。だがレリックの場合は全てを見透かしているように避け続けている。怒りを露にしている故、思考が読みやすいのか。無表情のまま顔を反らし、しゃがみ、手を払う。
男は怒りの叫びを上げ、なおも腕を振るう。
「お前には……!」
横に薙ぎ払われた手を眼前すれすれでかわした。爪がかすめたのか、頬に一筋の線が走った。
男の方はぜいぜいと息をしながら、それを見て少しだけ飄々とした悪魔に傷を与えてやった優越感に浸る。だが狂気とどうしようも無い怒りは静まらない。獣じみた目は変わらずに、口元だけを歪める。
対し、レリックは少し目を細めて見据える。さて、この男をどう静めてやればいいのか。
「お前にはあぁ、この苦痛が分かるかぁぁぁぁ!」
男はそこでひっ、と引きつった声を上げた。
それが笑い声だというのには後で気が付いた。
掠れた声が響く。けたけたと笑い、睨み付ける獣の目。
まさに狂っているとした言い様がなかった。
「人ではない。化け物! 俺を呼ぶ声は全て、化け物! 認めない。誰も認めやしない……人間として……お前なら分かるだろ、悪魔あぁぁぁ!」
その叫びは村中に聞こえた。
ぼろぼろになった家から顔を覗かせる幼子。それを静止する母親。武器を持って出てくる若者。怯え『人外がやってきた』などと呟き、身をすくめる老婆に老父。
村中に響き渡った。
「答えろぉ! お前は、怒りを感じないのかぁ!」
「先ほども言ったはずだ。忘れた、と」
「……ふふ、は……ははははは! 忘れただと……?」
男は目を見開いた。
「思い出せ! 痛めつけてきた奴を、恐怖に満ちた目を、殺意を! ……ひっ……憎くはないか……憎いだろう! そうだ、決まってるうぅぅ!」
激情は人を変える。
拳を作り上げ、振り下げて男は高らかに叫んだ。その手からはしとど血が流れ落ち、雨とともに足元の土に染み込む。
目は血走り始めていた。その目が見る者へと伝えるのは、激しい憎悪と殺意と何か。長年秘めてきたものが溢れ出し、精神を浸蝕された者の姿。
最初に対峙した時とは別人だった。
豹変した者を見れば誰だって驚く。だが、それに眉一つ動かさずに相手が出来るレリックは一体なんなのか。
「叫べ、叫べ! 昔年から積もらせてきたものを吐き出せぇ! 飄々とした奴ほど本心は醜い……。憎悪を積もらせ、殺意を潜め、激情を押さえつけ! そういう奴ほど、お前みたいな態度をとる! お前なら分かるはずだ、俺が……俺の心情を!」
レリックはしばらく黙り込んむ。
その口を開くのは何故か酷く重々しかったが、それでも、男の問いかけに答えた。
「確かにな。本心では、そうかもしれない」
その答えに一瞬呆然とし、にやぁ、と笑った。
やはり、こいつも俺と同じだ!
同じ境遇と言うだけで仲間意識でも感じるのか。悪魔の答えにどこかで歓喜した。
自分だけではなかった。苦痛を受けた者は他にもいた。どうしてか。どうしようもなく笑いが込み上げてくる。先ほどから感じるこのおかしさは何なのか。
腹の底から笑った。それは純粋な笑いではない。狂い、狂い過ぎて思考がまとまらない。面白いことは確かだが、何が面白いのか解らずにただ笑うだけ。
同じだ。同じだ。俺と同じだ。こいつも俺と同じだ! 醜く生き延びていることも激情を抱えていることも平常を装っているのも全て! 今も過去を呪い続けている俺と同じだ!
緊迫した空気の中で男が狂い笑う。
いつまでも続くかのように思われた笑いは村人に恐怖を植え付けた。男の纏う雰囲気が恐ろしいのか、泣いている幼子までいる。
レリックはそれをただ見据え、向こうから動いてくるのを待つばかりだった。
「あははははははははは! ははははははははははは!」
異様な光景だった。それ故にか目が離せない。
器官から細胞まで、身体の隅々を使っているかのように休む間もなく笑っていた。だが物事には限度と言うものがある。男は笑い疲れたのか徐々に声が小さくなり始め、最後に一笑いするとストン、と笑いで跳ね上がっていた肩を降ろした。
顔がガクリと下を向き、先ほどの狂い様とは一変した口調で話し始める。
「お前が何故そうも平常に過ごしていられるのか、僕には分からない。だが、一つだけ」
男が顔を上げた。その目からは何故か───涙が流れていた。
「俺とお前は同じ“恐怖の対象”として分類されるのに、同種ではない……。ああ、『動物』と『獣』の関係と同じだ」
男はそこで一度唇を噛んだ。涙からくる嗚咽を噛み殺したように見えたのは気のせいか。
「お前は過去から逃れることが出来る。だが、俺は、浴びせられた畏怖と差別の目、向けられた殺意に、生きることや存在そのものの否定。何もかもが俺には重すぎた! 生きる事自体に絶望した! それなのにここまで生きてきたのは、憎悪があったからだ。お前が忘れることが出来ると言った激情があったからだ! 畏怖や憎悪は俺の精神を食い破り、深く棲みついた。忘れることなど出来るかっ……! ただ復讐することを誓い、生きてきたのに……だから、俺は過去から逃れることが出来ない!」
溢れ足す涙を押さえようと右手で右目を押さえた。
左手で左胸がある場所を掴み、どこからか止めどなく溢れ出す感情を必死に耐えようとする。
そんなもので止まるなら“故郷”を襲うなど、最初からしていない。
「出来ないんだぁぁ!」
歯噛みし、空を仰ぐ。隠されていない左目には雨雲が映っていた。
その左目もすっと閉じられ、次に開いた時にはまた怒りを宿していた。
「邪魔をするつもりなら……お前も殺す」
ただその感情だけを告げる目。
それが光ると再び魔力を込め、男はレリックへ向けて吼えた。
「……殺してやるっ……!」