第2章《獣狩り》

 

4.【痛み】

 

「魔女か」
「ああ」
 砂を踏み付ける音が耳に残る。周りではごん、と獣がぶつかる鈍い音。それも気にならない、いや、気にしていられないと言った様子でクロムは言う。むしろ話の内容に気を取られていた。
 レリックはそんなクロムの少し陰った顔を、無表情で見る。
「ある魔法使い一族の一人だったらしい。なんか追われてたらしいが……それ以外は何も言わなかったな。ま、話したくねぇことでもあったんだろう。そんなの無理して聞いても意味ねぇしな」
「優しいことで」
 からかうようにしてレリックが微笑すると、クロムは照れたのか、何か言いたそうな顔のまま少し無言になる。だが溜め息を一つついて、すぐにまた語り出した。
「けどな、ある日何も言わずにいなくなっちまった」
 その目が少し寂しそうだと思ったのは、レリックの気のせいだろうか。
「問題はその後だ。突然魔法使いの団体が来てなぁ……出てっちまった後だってのに、何処にいるか聞いてくるんだ。もう半分争い、だったな。けどいねぇと分かるとすぐに消えた。あっという間の出来事で俺ら獣狩り師は呆然としたままだった」
 レリックはクロムの横顔を凝視した。
 ───本当にそれしか知らないようだな。
 表情からクロムが真剣なことが読み取れる。何か伏せていることがあるかと思ったが、この様子からしてなさそうだ。
 だが、ふっとクロムが上を見上げた。
「そういや、セリアは異常に怖がってたっけな」
「怖がっていた?」
「あの団体が来てからガタガタ震えてなぁ。声かけると泣きついて来て……いなくなってからも散々怖がって、熱出した」
 クロムは「なんでだったんだろうなぁ」と脳天気そうな事を言っているが、レリックは何となく分かっていた。
 母親が魔女と言うからには、もしかすると───
 と、その時、空へ向けて咆哮が響いた。
 毒で作られた獣たちは行く手を阻む。レリックにとってねじ伏せ、消滅させるのは雑作もないことだが、これだけ数が多いと時間はかかる。
 消えていく度に本物の獣と同様の鳴き声を上げ、数が減れば吠えて仲間を呼び寄せる。それが分かってから、一度全てを消し去って見たものの、呼び寄せられなくても魔力の気配か何かで追ってくるのか。向かってくる毒で作られた獣達は後を絶たなかった。
 その数が増える度に、レリックは、なんとなく獣に違和感を感じていた。
 だからと言って、魔力の固まりでもある防護壁を崩すわけにはいかなかった。その途端に辺りに充満した毒煙を身体に浴びてしまう。
 クロムは前を走っている。この獣たちに下手に手出しが出来ないのと、一刻も早く依頼を受けた村へ向かうために。それをレリックが援護する形で黙々と進んで行く。
 右から獣が跳びかかってくる。だが彼らの元へ届かないうちに煙と化して風に乗っていった。レリックはその様子を見ながら、自分らが進んできた辺り一帯は毒に冒された不毛地帯になるのだろうな、とぼんやりと思った。元から砂漠だが獣すら住むことが出来ず、緑も二度と育つことのない場になる。土地としては再生不能の場となるわけだ。
 毒を除去することも出来るが、今の状況を考えると立ち止まるわけにはいかなかった。第一、クロムが止まることを許さないだろう。
「前!」
 クロムが唐突に叫んだ。そちらを向くと狼に近い姿の獣が向かっていた。
 こちらに来ることはないものの、クロムは獣狩りの癖が出たらしく短剣を取り出していた。
 それすらもぶつかって煙と化して消えていく……が、中に赤いものが混じっていた。それは空気中に舞い上がることはなく、地面に落ちて砂に染み込んでいく。液体だ。これは毒としては様子がおかしい。クロムもそう思ったのか、それが落ちた場所で立ち止まる。
 近づいて行くと、彼はこう言った。
「血だ」
 レリックも近づいてその場にしゃがむ。手を伸ばして、赤く染まっている砂に触れてみた。人さし指と親指を強く擦り合わせると、いくつかの砂はパラパラと落ちる。指の腹に、砂が動いた後を描くように赤い線が残った。他の砂は濡れているせいでまだくっついている。
 顔を近付けずとも、その場に充満し始めたつんとした匂いで血だと言うことが分かった。
 おかしいな、とレリックとクロムがほぼ同時に言った。互いに顔を見合わせる。レリックは相変わらずの表情で。クロムは少し驚いたように。
「何がおかしいと思った?」
 レリックが尋ねると、クロムは少し考えるようにしてから答える。
「獣をかっ捌いたり斬ったりしたことがあるか?」
「……それなりにな」
「獣と動物の違いは知ってるか?」
「魔力や運動能力、姿など、それらが動物の域を超えているのが獣だな」
「そうだ。だがもう一つ違いがある。血だ」
 その言った言葉に予想が当たっているのだろうな、とレリックは思った。
「動物が獣に変わった時、血も赤から別の色に変わるんだ。緑や紫なんかみてぇにな。さっきのやつは姿はどうみても獣だ。なのに血が赤ってどういうことだ」
 クロムは頭をひねるが、レリックにはとっくに答えが分かっていた。
「時間がないだろう。向かいながら説明しよう」
 そう言って立ち上がり歩き出す。クロムも慌ててその後を追った。
「途中から何か、おかしな感じはしたんだ。進む度に獣の魔力が段々と弱くなっていく」
 その言葉にやはり頭をひねるクロム。魔法のことに関してはさっぱりな上に断片的に話をされたからだろう。
「先ほどの血の話もある。私も最初はあの獣達は毒から作られていると思った」
 そう言っている間にも獣が飛びかかってくる。何度も同じことの繰り返しだ。その獣は防護壁にぶつかり、煙か霧か、どちらとも言えない姿になって風に流れていく。ただし今まで緑だったはずが赤が混じり始めていた。
「ところが、だ。さっき獣は血の色が変わると言ったな?」
「ああ」
「それと、私の知っている知識で判断する限り」
 獣がぶつかる。ところがそれは、だん、と音を立ててぶつかった。そして身体の一部が煙となるが……その色はもはや赤。失われた身体の一部からは赤い“血”が滴り落ちていた。
 痛覚があるのか。それは悲痛な鳴き声を発する。
「動物が獣に仕立て上げられている、と言ったところだな」
「はぁ?」
「つまり、魔法を使って動物を獣にしている。血も魔法によって毒霧に変えているんだろう」
「な……んなこと出来るのか……あんたも出来るのか?」
「出来るだろうな。どうやるのかは詳しく知らないが」
 レリックはそのまま片手を振る。今まで走る以外動きを見せなかったのに、と、クロムは不思議に思った。だが、その前方で獣がふっ飛んでいくのが見えた。
「一体、何をしたんで……?」
「見ての通りだ」
 しらっ、とした顔で答える。そんなこと言われても、分からないから聞いたんだけどなぁ……と、レリックの頭を見ながらぼんやりと考えた。
 いつの間にフードが外れたのか、髪の毛が露になっている。
 やはり伝承にある通り、その髪は銀に光っていた。太陽の光が反射してまぶしいくらいだ。
 普通ならここで驚くか、まじまじと髪を凝視してしまうだろう。ところがクロムが考えていたのは「頭熱くないのか?」だった。
 もろに太陽の光を浴びているのだ。時間が経てば大抵の人間は暑さで倒れる。そんなことを考えているとレリックが振り返った。一瞬驚くが、それ以上にレリックの言葉に驚くことになる。
「防護壁、外すぞ」
「へ?」
 そのままレリックは右手をローブから出すと、指をパチンと鳴らした。すると別の方向からパチンと言う音が聞こえて、急に風が吹いてきた。
 あまりの風圧に「うぉ」とクロムはおかしな声を出した。舞い上げられた砂が顔に当たる。
「ここから先は、一体ずつ払っていこう。出来るだけ殺さないようにな」
「は、払うって……俺は良いとして」
 クロムは短剣を見せながら言う。
「あんたはどうやって」
「なんとでもなるさ。 何せ、これがあるからな」
 と、すっと人さし指を立てた。そういえばフォーラルステイトを出る前に同じポーズをとっていたな、とクロムは思った。
「魔法、ねぇ。ほんと何もかにも簡単に済みそうだな」
「馴れればな。使い方次第にもよるが」
 レリックはそれだけ言うと、前方に出てきた三体の獣を腕を振っただけでふっ飛ばす。レリックのローブの裾が風に煽られる。クロムの方にも強い風が吹いてきた。それで分かった。レリックは風を操って獣をふっ飛ばしているのだった。
 それに気付いてからクロムは関心が半分、途方もないと思うのが半分のまま、思ったことを率直に言う。
「ほんと、何でもありだな」
「何でもありさ。それ故に便利で───恐ろしい」
 恐ろしいと言う言葉に「どうしてだ?」と聞き返す前に、後ろからまた獣が現れた。その姿は、ほぼ動物だ。それも害のなさそうな。
 元々、自分らにとって害のある動物を総合して『獣』とヒトは呼んでいた。恐怖を畏怖を込めて。いつからそうなったのか。それを知る術は今となってはないが、ヒトの中で獣に太刀打ち出来る『獣狩り師』の行動は一つ。獣を狩ることだ。
 獣は二体いた。一体目に斬り掛かる直前にレリックに「出来るだけ殺さないようにな」と言われたことを思い出して、急所に向けていた刃を少し反らす。その刃は獣の横腹を傷つけた。斬りつけられた獣は砂の上に転がり、赤い血が飛んで、砂に吸われていった。致命傷にはならないと思うが、こちらを恐れてもう向かってこないだろう。
 どうしてレリックは「出来るだけ殺さないようにな」と言ったのだろう。レリックと会ってから疑問ばかりが浮かび、その度に理由を聞いていたクロムだが、この言葉の答えは考えずとも分かっていた。
 動物を無駄に殺す必要はない、と言うことだ。
 獣狩り師は獣を狩る。元々動物だった獣を。
 だが、獣だからと言うだけで狩るわけではない。ヒトに害を及ぼしたものを狩るのだ。それは依頼を受けて行うのが大半。それ以外殺すことは滅多にない。こちらが無駄に殺せば、その分彼らも怒り狂ってヒトを襲うだろう。
 それにヒトだって動物だ。分類されてはいるが、相当幅広い目で見ればヒトも動物も獣も同じ生き物だ。
 そんな同族同士で殺し合っても意味はない。それどころか互いに互いを滅ぼすなんてまた無意味な殺し合いが増えるだけだ。
 出来ることなら、共存を───その道を取るべきなのかもしれない。今も一つの共存の形だが、出来れば殺戮なんてないものを───目指すべきだ。甘い言葉かもしれないが。
 だがヒトは獣を恐れ、獣はヒトを恐れている。徐々に慣れていけば良い話だが何十年、いや何百年それが続くのだろう。
 共存への道が開ける前に、ヒトが獣を滅ぼしてしまうかもしれない。逆に獣がヒトを滅ぼしてしまうかもしれない。皆同じ考えを持っているわけではないのだから。もしくは、この世界最強の生物とも言われている竜に滅ぼされるかもしれない。

 

 過去に受けた獣狩りの依頼を思い出した。
 クロムが獣狩りに出るようになって間もないころの出来事だ。
 獣だって何か理由があってヒトや集落を襲っている。住処を追われただとか、仲間を殺されただとか。
 その時の原因を調べると、どうもヒトの方が獣たちのテリトリーに入っていったのが原因らしかった。これではヒト側にも責任がある。
 狩る前にその事を村の長に言ったところ、彼は平然とした顔だった。
『獣だってなぁ、人間みたいに住む場所追われたら怒るに決まってる』
『あいつらはどんな場所でも生きていけるだろう』
『そうかもしんねぇけど……なあ、考えてみてくれよ。少しだけでもあの土地残しておくとか』
『残してどうしろと?』
 その時にリーダーになっていた獣狩り師が前に出て説明した。クロムはその獣狩り師の横顔を見て、長の方を見た。
『共存ですよ。人間が善意を持って接してやれば、獣だって人間を襲わない。前例はあります』
 話は本当だった。ある依頼を受けた時に実行してみたところ、それ依頼獣と共存する形を取った村があったのだ。ただそれは前例が少ない上にその村が辺鄙な所にあるため、情報がなかなか広まっていかなかった。
『共存? そんな事、出来るわけないだろう』
 共存と言う言葉に驚くこともせず、さも当たり前といった顔だった。
 それに無性に腹が立った。自分の利益のことしか考えず、他のものは目に入らない。そんな生き方をすればあの考えと顔が出来るのだろうか。
 よく思い返せば、その村も村とは言い難かった。
 国では数年間不作が続き、税も跳ね上がった。取り締まりが厳しすぎて脱国を試みる者は後を絶たなかったと言う。国の王が傲慢でいい加減な者だったのがそもそもの原因だろう。
 坦々と話すだけの長の後ろでは、村人が引っ切り無しに働いていた。長の命令によって働かされていると言ってもいい。
 クロムは村人の様子と耳を貸さない長の顔をただ見ることしか出来ず、どこからか沸き上がってきた怒りを隠した。
 後にその村どころか、国事体が崩落したと言う話を聞いた。

 

 思い返してぼんやりとしていたところに二体目の獣が向かってきた。それをかわし、振り向き様に足を刺す。出来るだけ力を加減して。
 ぎゃん、と鳴いた後、獣───いや動物か───は砂の上に着地し、そのまま片足を引きずって去っていった。
「……なんで、こんなこと」
 動物を獣化させ、そして毒霧化させて何の意味があるのか。やはり足留めしかないだろう。何故それほどまでに足留めをしたいのか。……レリックが来ているからだろうか。他にもまだある。クロムにはまだ分からないことだらけだ。
 ただ、レリックだけは何となく勘付いていた。
 見えない獣は、魔法を使えば雑作もなく出来る範囲の事だろう。
 村を襲っている理由も、恐らく───
「あ、あそこだ!」
 クロムが叫んで前方を指差す。
 そこには、どこか霧がかっている村があった。

 

 

 地面に二滴、雫が落ちた。
 一つは透明だが、もう一つは赤。
「くっ……」
 ロウが痛みに顔を歪めている。堪えるように歯を噛み締めるが、痛みはまぎれない。紛らわす必要もなかった。
 額から汗が流れた。毒のせいで熱が出てきたのかもしれない。
 胃がムカムカしてきた。自分の前にある顔を見たせいか。
 後ろでセリアが息を飲んだのが分かった。
 ───ああ、やっぱり驚いただろうな。
 どこかでそう思いながら、短剣を上に引いた。
 左足から血が流れていた。
 最初は短剣が刺さっただけだが、だんだんと滲み出て服を濡らした。血を見た瞬間に、痛みがさらに強烈なものに変わった気がした。
 上手く息が整わない。毒を抜くより回る方が早かったと言うのか。
 自分の握りしめている短剣の先から血が流れていた。血なんていつもなら見慣れている。けれど今ばかりは少し気持ちが悪くなった。吐き気がした。嗚咽が口から漏れそうになったのを、噛み締めて堪える。
 相変わらず頭はぐらぐらしていたが、左足の痛みのおかげで少し紛れた気がした。痛みを感じると言うことは感覚は元に戻ったのだろうか。
「自分を刺すとはね。毒血を抜いたわけか」
 目の前にいる人物は少し身構えていたらしく、スッと前に出ていた左足を戻す。あの殺気と焦り、自分に向けられている目からして、自分に短剣の刃が向くと思っていたのだろう。
「予想と違ったってか?」
 どこからそんな余裕が出てくるのだろう。ロウが憎まれ口を叩く。セリアは後ろでどうしようもなくおろおろしているだけだ。目には微かに涙が滲んでいる。
「ああ、違ったね。見たところ、後先を考えないで行動しそうだったから」
 安い挑発だ、とロウは思った。自分が短気なのは何となく自覚しているが、獣狩りとなると相手の行動も把握しながら動いている。あの獣の身体能力を考えると自然と慎重になるわけだ。
 オレも獣相手にすぐ飛び掛かるほどバカじゃない。
 そんな目に見える嫌みを受けて、すぐに怒るほど単純でもない。
 ロウが何も答えないことに、相手の方は焦りも見せずに柔和な笑みを浮かべている。考えが読めない顔だ。そしてロウにとっては妙に勘に触る笑顔だった。考えが読めない以上に、気に食わなかった。
 それはロウ自身の想いなのか、獣狩り師としての勘から来ているものなのかは分からない。
 ───とにかく、その笑顔に腹が立つ。
 右手にある剣の柄を握り直した。
 刃から自分の血が流れる。拭おうとしたがすぐに止めた。どうせまた血が付く。
 手をついて立ち上がった。よろめきながら、足に力を入れた。
 少しだけ頭がボーッとして目が霞んだ気がしたが、それもすぐに左足の痛みでかき消される。この状態で痛みがあるのは良いことだった。麻痺していたら足を傷つけられようが切り落とされようが気がつかないだろう。
 痛覚があるからには、他の神経も恐らく麻痺していない。
 立ち上がり、左足を動かす。動かす度に痛みは走り血は流れるが、それ以外は正常だ。いつの間にか口から外れていた布を左足に巻く。
 何もしないよりはマシだろう。
「さて……どうすっかなー」
 緊張感のない台詞だが、呂律も回っている。毒はかなり抜けたらしい。ただ比例して血もその分流れていることになる。と、なれば頭がふらふらしているのは貧血か?
 揺れているような感じのする頭を抑えながら、右足でとんとんと地面を叩いた。右足正常。右手にある剣をくるくると回す。右手正常。
 これだけ動けば少しくらい足留め……いや、時間稼ぎくらいは出来る。
 後ろにいるセリアは何も言えずに震えているだけだった。そういや獣狩りの時もこうだっけな……。
「おい、大丈夫か?」
「……ぁ」
 声が詰まって出せないのか、それだけしか言わなかった。目は見開いてるし泣きそうだ。どうしてここまで怖がる必要があるんだ、と言うくらい震えている。
 やっぱりこいつが原因か───。
 ロウは前にいる人物を睨むが、相変わらず同じ顔だ。
 どうにかして落ち着けないと話も出来ない。そう判断し、セリアの肩に手を乗せると一瞬大きくはねる。けれど安心したのか、ゆっくりとロウを見た。
「いいか? さっきも言ったけどな、逃げろ」
「……どうし、て」
「いいから」
「そ、んなこと言っても……ルエル姉も、ルイド兄もいるし……ロウ兄は、どう……するの?」
 震えは止まらずに、途切れ途切れに疑問が口から紡ぎ出される。
 セリアは自分でも落ち着け、落ち着けと言い聞かせているが、どこからか這い上がってくるような感覚は止まない。

 ───何かは分からないが、そのままその何かに飲み込まれていってしまいそうだ。そしたら、二度と出られないような。
 ……ああ、そうか。牢獄に入れられるような感覚なんだ。きっと。
 そんなもの実際に入ったこともなかったが、きっとそうなんだと思った。
「おい、聞いてるか?」
 ハッとすると、ロウ兄の顔が見えた。
「う、うん」
 本当は途中からプツリと記憶が途切れてる。なんだろう、今の……。
 ───なんか、悲しかった。
 こんな出来事全然知らない。それなのにどうして自分が言われてたような気になったんだろう。
 左手に何かが落ちた。なんだろうと思って見てみると、透明な雫が手の甲についている。雨?
「……何で泣いてんだ?」
 ロウ兄がそう言った。泣いて? ……本当だ。涙が流れてる。
 左の頬に触れると、指に涙がついた。
 どうして泣いてるんだろう。自分でも分からない。
 ふと気が付くと、あのおかしな感じは消えていた。
「大丈夫、何でもないよ」
「本当かよ……まー、そう言う場合じゃないな。いいか? 逃げろよ? 出来るだけ遠く。大将に会えれば一番良いんだけどな……」
「ロウ兄」
「何だよ、いいから早く行けって!」
 ロウ兄がどことなく苛立ちながら答える。殺気が戻ってきている感じだ。空気がピリピリとしている気がする。あーあ。これでこんなこと言ったら、怒るんだろうな。なんて、緊張感のないことを考えながら言った。
「私、逃げないよ」
 そしたらやっぱりロウ兄は「ああ!?」と声を上げてこっちを見た。
「ふざけんな! あれはお前じゃ相手できねーし、残ってどうするつもりだ!」
「何だろうね」
「何だろうね、って……いいから逃げろっつーの!」
「それは出来ないよ」
「意味分かんねーよ! ああ、もう!」
 相変わらず沸点は低い。けれど今は殺気だってるせいもあるのか、いつもよりちょっと怖かった。
「ダメ、逃げちゃダメなの」
「どういうことだよ?」
「よく分からない……」
 自分でもどうしてその場に残ろうとしているのかよく分からない。けれど“残らなければならない”とはっきり自覚はしていた。
 身体の中で何かが流れているような感じがする。血ではい何かが。
 それが無性に自分を駆り立てる。“滅せよ”と。滅する? 何を───。
「ま、どちらにしても逃げられないけどね」
 と、目の前の相手は言った。
「どう言うことだ」
 ロウが聞くと、その人物はくすくすと笑って言った。
「周りは毒霧で包まれてる。出ようとしたら、毒を吸って死ぬことになるよ?」
「な……コノヤロ……!」
 目を見開いて驚いたかと思うと、ロウは怒りを露にして拳を握った。
「まあ、どうあっても、これは面白い」
 そんな彼の様子とは関係なしに、唐突に目の前の人物がそう言い出した。
 相手を睨み付ける。だがそれに目もくれず、その人物が見ているのはセリアだった。
「干渉か? それとも流れる血のせいか?」
「何の話だ」
 まだ怒りの治まらないロウが言うと、その人物はふふっと微かに笑う。
「君には分からないだろう。僕とこの子がどう言う繋がりを持っているのか」
「繋がり?」
「血だよ。魔法使いとしての血。同じでありながら相反する血を持つ者なんだ。ああ、まさかここで会うとはね。……久しぶりに、血が疼く」
 くっくっく、と喉の奥でその人物───男、らしい───が笑う。
 ロウは、ゾクリ、と背筋に寒気が走ったのが分かった。その男の雰囲気が急に一変している。口調はさほど変わっていないかもしれないが、妙な凄みがあった。
(なんだこれ……これが魔法使いの魔力ってやつなのか……?)
 ロウは獣狩り師のため、はっきりと魔力を感じ取ることは出来ない。けれど身体中を襲う重み。それが急に増したような気がする。そして仕事上、よく感じ取る気配───殺気も増していた。
 その気配を打ち消すようにロウは叫んだ。
「ワケ分かんねーぞ……このイカレ野郎が!」
 右足に力を入れた。同時に身体のバネも使って一気に距離を縮める。
 右腕に力を込めた。獣狩りの時と同様に動く。左足を軸にして一度止まった後、右足を使って上へ向けて跳ねる。剣の刃先は相手に向けて。一度避けられたが、続けてフェイントで左足で蹴りの体制に入る。そして刃先を切り返すようにして顔を狙った。こうすれば相手は一瞬戸惑って判断が遅れる。斬られるか蹴られるかのどちらかだ。
 その動きは通常の人の動きよりも速い。獣と対当なぐらいの速さだ。そこで普通の人間ならば避けられずにもろに剣を食らうだろう。
 だが、その男は普通ではなかった。
 いきなりロウの右手首を掴んだかと思うと、左足の蹴りさえも右腕で受け止めてしまった。スパン、と音が響く。
 どうしてこの速さについてこられるんだ───いや、まだだ。
 止められた足に力を込め、上から男の肩に蹴りを落とす。
 随分な音がしたが、それでも相手は微動だにしない。顔に蹴りいれてやろうか。そう思ったが、逆に右手首を掴まれているオレの方が危険だ。放させようと右手にまた力を込めて振りほどこうとした。オレも結構力はある方だと思う。けれど相手は見た目の割によほどの怪力なのだろうか。その手は少しも緩まない。
「痛むか?」
 そう言って左足を蹴られた。瞬間、激痛が走る。
「ぐっ……」
 思わず唸る。
 少し目を下に向けると、左腿からまた新たに血が出ていた。気のせいか傷口が広がっている気がする。
 それは服の上を伝って地面にポタポタと落ちた。
「身体の傷は生きている限りいずれ塞がる。だが……」
 そこで腹を殴られた。息が詰まり、じわじわと腹が痛む。
「精神に負った傷は……決して回復しない」
 さらに続けて腹を蹴られる。また息が詰まって喉の奥から「がぁ……」と声にならない音が聞こえた。
「精神に負う傷とはどんなものか分かるか?」
 手首を掴む力が緩まった。それを勢いよく振り払う。見れば手首には指の跡が残っていて、内出血を起こしていた。
 どんだけ力あるんだよ、こいつ。
 あの見えない獣の正体が掴めないように、こいつも底知れない雰囲気を持っていた。
 見えない獣……?
「やっぱ、お前か?」
「何がだ」
 話を中断されたせいか、そいつはどこか不機嫌そうな声を上げる。さっきまで掴めない雰囲気だったのが嘘みたいだ。
「獣だよ。この村を襲わせたの、お前だろ」
「よく分かったね」
 否定せずにあっさりと受け入れた。逆に白々しいぐらいだ。けれど今こいつが漂わせている雰囲気からは、冗談とも思えない。ただ事実を述べて、それを認めただけ。そんな感じだ。感情も何も存在しない。
 けれど段々と最初の雰囲気を纏い、オレに向かって話し始める。
「どうして気が付いたのかな?」
「勘、だな。大体、仲間が『これは魔法使いの仕業じゃないか』と目星を付けてた。そこに現れた魔法使いがお前」
「大体合ってるかな。けどね、まだ出ていない話もある。それに一つ」
 するとその男は音もなく目の前に近づいてきた。そして囁くように語る。
 無表情でどこか狂っているような物言いと雰囲気に気味悪さを感じて、再び背筋がゾッとした。
「この村は獣に襲わせたんじゃない。僕自身がやったんだよ」
 次の瞬間にはオレが宙に浮かんでいた。
 足を払われて、どうやったのか分からないがそのまま後ろへとふっ飛ばされる。セリアが驚いた顔をしているのが見えた。
 地面に激突する。そう判断して、とっさに両手で頭を庇う。そのまま肩から地面にぶつかり、軽く5メートルは地面を滑った。
「…………いってぇ……」
 肩の部分は服がすり切れていた。
 そこから露出した肩も地面に擦れて、肌にぽつぽつと赤い血の跡が見える。二の腕は近くにあった石にぶつかったせいで、血で赤い筋が出来ていた。
 着てたのがもっと薄い布だったら多分、肌の皮剥けてただろうな。
「ロウ兄」
「逃げられないなら、どっか引っ込んでろ!」
 どうしていちいち怒鳴るように言うんだろうな、オレ。
 セリアが肩を震わせる。
 あーあ、泣かしたかもな……。そう思ったがセリアは泣かずに「分かった」と言う。そしてその場から数歩後ろへ下がった。
 もう少し安全な所に言った方がいいと思うが……まあ、今はそれにかまけてる場合じゃない。オレがかまけるとしたら、目の前の奴の相手だ。
 短剣は握っていて、なんとか放していなかった。
 立ち上がって深呼吸をする。毒血は大方抜けたみたいだが、さっきのふらつきが酷くなっているような気がした。ヤバイかもな。
 最初に身体を起こした時は、特殊な呼吸法で毒を足の方へ追いやった。おかげで足は麻痺してたが。血を抜く意外、毒を身体の外に出す方法なんてないから仕方ない。
 じりっ、と足元で砂が鳴った。目の前の奴はさっきから不機嫌そうな顔つきのままだ。
「まだ君が向かってくるか……まあいい。これも一つの余興かもな」
「意味分かんねーこと言ってんじゃねぇよ。それにお前自身がやっただぁ?」
 確かに、余興扱いされている。
 オレが邪魔なら、倒れてる隙に追い打ちをかけるなり殺すなりすればいいわけだ。それをあえてしないのは一体どうしてなのか。さっぱり分からない。
 一つ、罵りでもしたかったが、こいつに当てはまるような悪口が見つからなかった。だからそれとなく怒らせるように喧嘩腰に言う。
 まだだ。出来るだけ時間を稼げ。
 あー、大将、魔法使い連れて都合よく現れてくんないかなー……!
 これはもう、賭けだった。次にあの怪力で攻撃されるような事があったら動けるか分からない。そのうち緊張も切れる可能性があった。
 その時、ふっと相手の手が動いた。何だったんだと思った隙に、腹に衝撃と抉られるような重みが来る。胃の中のものが競り上がり「うっ……」と唸ったが、何とか堪えて立ち続けた。
「何だ、今の……」
「魔法だよ」
 自問したつもりが、そいつは丁寧にも答えた。
 あー、吐きそうだ。朝は何も食ってないから、出たとしても胃液だろうが。
「魔法……? つーことは、さっきの怪力も……獣の事も魔法か」
「ご名答」
 パチパチとそいつが拍手をした。響くのはその音だけだ。
 向こうもオレを挑発してるのか。今の状況で飄々と、妙に勘に触る態度で言う。
 見えない獣の正体はこいつ。それが分かっても、大将が魔法使いを連れて戻ってこない限り捕まえるのは無理だろう。
「さて、君が持った謎も解けたところで、僕の話も聞いてもらおうかな?」
「お前の話になんか、聞く耳持たねーよ」
 それにさえもふっと笑って、オレの言葉を無視して語り始める。
「さっきの続きだ。……精神の傷と言うのはね、色んな事だよ。常に周りに満ちあふれてる。特に、異分子の周りにはね」
「何言ってんだ」
「異分子。それは例えば伝承にある悪魔。そして獣。僕もその仲間だよ」
 駄目だ。完全に話の次元が違ってきてる。けどまあ、いい時間稼ぎにはなるから黙っておく事にした。
「獣は動物なのに恐怖の対象として扱われ、異種と見なされる。僕も同じだ。人から恐怖の対象とされて、異種と見なされてる」
 確かに、頭は少しヤバイかもな……。
 そんなことを考えてる矢先に左足にもあの衝撃が来た。治まっていた激痛がまた走る。抉られる。実際には押された程度だろうが、そんな感じがした。自分で付けた傷がここまで響くのは予想外だったな……もう少し浅くしときゃ良かった。と、今更になって後悔した。
「異種と見なされたら、迫害を受けた。それが僕の精神の傷だ」
「は! ようするに、人扱いされなかったってことか!」
 そう言うと、そいつは目を見開いてオレを見た。
 しまった。今の言葉で完全に怒ったか?
「ああ、そうだ。人として扱われなかった。陽の光を浴びることも許されずにずっと隔離されてな。モノ扱いだ」
 冷静に言っているように見えるが、声には怒気がこもっている。
「お前に俺が受けた痛みが分かるか?」
 一人称と二人称が変わった。
 大分怒ってるみたいだな。
「分かるわけがない。実際に体験しなければ、な」
「ははっ……それじゃあどうするって言うんだよ!」
 オレがわざと嘲笑いながら言うと、向こうは顔を歪ませた。
 そこへ、一陣の風が吹いた。

 

←3  Top  5→