Side:Report No.1
《かるは番犬。かうは愚考で愚行。かりは作り、かしは与え、では、かわれるのは一体なにか。選択権は何処にある?》
早朝。この時間と言うのは、夜勤明けの警備員の集中力が切れる頃だ。
金髪碧眼の青年が街の中で一際大きな建物を囲む塀を飛び降りた。足音を立てぬようにし、身を低くしながら進んでは物陰に隠れることを繰り返し、やっと侵入出来そうな経路を見つけると辺りに人影がない事を確認。見つけた経路は5メートル程の高さにある窓だ。僅かに開いているが、閉じ忘れたのだろうか。
上手い具合に開いているそれを見つけて内心「しめた」と思うものの、少しばかり躊躇いもあった。いくらなんでも警備がお粗末すぎやしないだろうか? ここは重要な場所ではないのか?
しかしそんなことを考えた所でやることは決まっている。侵入あるのみだ。
思い直すと一旦身を低くし、その場で飛び跳ねた。助走もつけていないというのに軽く到達し、僅かに開いている窓の縁へ片手をかけ、開いた片手で窓を音を立てないように開く。ようやく開ききった所でぐっと力を込めて身体を持ち上げて乗り上げた。
身のこなしと脚力からして人間離れしていることは明白だ。人間の限界を極めて雑技を披露するサーカスにでも入っているのなら別なのかもれないが、彼は一般の何処にでもいるハンターである。しかし、そんなことに注目する者は今は誰もいない。
中の様子を確認するが人影が全く見当たらない。外だけではなく、中までずさんな警備体制をとっていることに内心で呆れてしまう。
獲物を狙うのは姿をくらましやすい夜というのが定積だ。実際にその頃に侵入を試みる者は多いだろう。それを考えると意表をついた時間帯ではあった。
───それにしたって、これはどうなんだ?
富豪と言うくらいではあるし、警備員を何十人も雇っているだろうと予想していた。だが実際はこれだ。拍子抜けしてしまう。
窓に手をかけたままもう一度中を見やり、気配もしないことを確認すると、するりと軽い身のこなしで隙間から侵入。先程と同じように音もなく着地した。
辺りを見渡すと部屋中に設置されたショーケースの中に、高そうな壷や中世風の鎧まで、まるで関連性のなさそうな骨董品たちが所狭しと並べられていた。それこそ宝石できらびやかに飾られているものの苦悶の表情を浮かべた仮面や、少々グロテスクな人形まで。価値のあるものなのかもしれないが、後半のラインナップからして趣味が良くないであろうことはわかった。いいや、集められているものに規則性もないところからして節操がないというべきか。コレクターとして骨董品を収集しているというよりは、値打ちのあるものならなんでも集めていると言った感じだ。思わず苦い表情を浮かべる。
頭の悪い金持ちは結局の所、金にしか価値を見いだせないのだ。値のはる収集物を見せびらかして、自分がいかに位が高い人物であるか思い知らせようと思う訳である。常識ある一般人であれば少々引くだろう。少し考えれば分かることだ。
要は、お高いものをもっている=大金を所持している=位が高いという、なんとも言いようのない図式が成り立つと本気で思っている辺りが頭の悪い所と言う訳だ。そして現状の金持ちと言う奴は、何故か大半がこういう頭の悪さを見せびらかしている。
いつか知り合いのハンターが皮肉って言っていた「私腹を肥やしすぎて、頭の中にまでお花畑が出来上がっちゃってる」というのはあながち間違いではないのかもしれない。金の力で問題を解決することを知ってしまうと、判断力が鈍って常識というものを忘れてしまうのだ。そんな馬鹿が多いからこそ、こそ泥というのも存在する訳だが。
普段はこんな風に民家に侵入することはない。が、今回の件ばかりは別だ。
掴まされた情報が嘘か本当か。それを確かめる為だけではあったが、何日か前からこうしたことを繰り返している。ターゲットは富豪ばかりだ。しかしどれもこれも同じ。罠でも張っているのなら話は別だがそれすらない。
侵入している側としては楽なことこの上ない。ないが、張り合いがなさ過ぎる。面倒ごとにならないのであればそれに越したことはないのだが、気を張って侵入しているのが馬鹿馬鹿しくなってくるのだ。
はあ、と溜め息をついて再び辺りを見渡す。いくら楽であるとは言え、早く済ませた方がいい。
見渡してみるが、目立つのは先程の趣味の悪そうな骨董品ばかりだ。次の部屋へと続く開きっぱなしのドアがあるのを見つけて歩を進める。が、そこにもえらくグロテスクな人形達が押し並ぶ。少し後ずさりして入って来る前のドアの表記を見ると『神への反逆』というタイトルが付けられていた。その下にある細かい説明を読んでいくと、この部屋そのものが神を没する処刑場というテーマで押しているらしい。
……阿呆か。
半目になりながらそれを見やり、うげぇ、と声を上げる。
改めてこの屋敷の持ち主の趣味の悪さを思い知った。阿呆だ。阿呆すぎる。神を信じようが信じまいが知ったことではないが、こうして堂々と展示して何になるんだか。単なる目立ちたがりなのだろうか。両手を掲げている人形達を無視し、さらに歩を進めるとこれまた一変した。
今度は僅かな照明に照らされた数々の宝石類が見えだしたのだ。
思わずにやりと悪い笑みを浮かべる。これだけの数があるのだ、目当てのものもある可能性が高い。判別するのは大変そうだが。
さて、探させてもらうとするか。そう思った時、僅かな足音が聞こえた。
まずい、誰か来た───思うと同時に気配を消し、暗闇の中で紛れるように身を隠す。
それにしてもどこか躊躇っているような足音だ。侵入経路や居所が分からずに探しているのだろうか。警備員にしては軽い足音も混じっているような気もする。何分経っただろう。やがてそれが遠ざかり、ほっと息をついて立ち上がった時だった。
カタ、と物音が聞こえた。
───警備の奴か、同業者か?───どちらにしても見つかった。瞬時に判断すると同時に、ホルスターに収めていた銃を素早く引き抜き、音がする方へと向けた。
だがそこにいたのは、予想に反して随分と小柄な影だった。
僅かな照明があるとは言え、暗い部屋の中。照明の光を反射してぼんやりと浮かび上がる真っ白い服を着た子供がそこにいた。向けられた銃に怯える風でもない。ただそこに立っているだけだ。
しかし、それが奇妙でもある。
ぎゅっと服の端を握りしめ、棒立ちでいるのはまだ年端もいかない少年か、少女か。身体の線が分からないような服を着ているせいで性別の判断が出来ない。白い服とは形容したが、言うなら病院で着るようなそれに近い。丈は膝下まであるものの、頭を腕を通せばそれで終わりの代物だ。清潔には見える が……血の匂いがする。見れば袖から覗いている手首には濃い痣。足首も似たようなものだが、そこには足枷と重圧な鎖が絡まり未だに出血しているらしい。
少し上を見れば、そこには生気を無くしたかのように青白い顔があった。子供特有のふっくらとした顔つきはなく、頬は痩けている。ぼさぼさの黒髪から覗くのは光を無くしたように真っ黒い目。おまけに首元には真っ赤な皮製の首輪ときた。
ここまで確認し、ようやく分かった。大方この屋敷で買われていた“商品”だ。
安定してきた現状でこそ数少なくなり廃れてきているものの、戦争時にはそこらから拾ってきた孤児達を、奴隷やら愛玩やらを目的とした商品として売るのは珍しくなかったのだ。もちろん政府があった時代から違法にはされていたので、裏商売としての話なのだが。
ところが私腹を肥やした馬鹿というのはいつの時代も居るもので、そういう奴が行き着く趣味と言うのが大概が“大金をはたいて命を買う”という行為。手っ取り早く支配欲を満たせる上に、優越感にも浸れる。金に物を言わすことが出来るというのは飽くことが早いのか、こういう悪趣味なことに金をつぎ込む奴はかなり多い。
とりあえず見つかった訳ではないことに安堵するが、銃は下ろさない。
妙だ。こんな場所に一人で居ることが。大方逃げ出してきてここに行き着いたと言う所なのだろうが、引っかかる───気配を感じなかった。
自慢と言う訳ではないが、いつもの自分なら大概の気配なら早い段階で感じ取ることが出来る。おまけに警備らしき奴らが騒いでいたとは言え、こんなに静まり返った部屋の中だ。感じ取れないはずが無い。それなのにこんなに近づいてくるまでに何も気がつかなかったと言うのはおかしい。やっと匂いも感じ取れたほどだ───が、そこで一つの理由が浮かぶ。
「おい」
近づきつつ声をかけると、ぴくりと肩を震わせてこちらを見上げてくる。しゃがみ込んで子供の足首へと手を伸ばすと怯えたように一歩下がる。それを気にせずに左手で足首をとると、こちらの頭に両手をつけてぐいぐいと押してきた。随分と力が弱い。いや、弱っているのか。些細なものでしかない抵抗を無視し、右手で足枷を掴んで指先に力を込める。が、それでびくともしない。普通の力では割れない、となると……
「動くなよ」
そう言ってから目を閉じ息を吐いて一気に力を込める。するとピキ、という音がし、足枷が割れて外れる。
今しがた割ったばかりの足枷を持ち上げて見ると、子供にはめる足枷にしては少々重いような気がした。視線を感じて横を向くと、子供が口を開けたままこっちを見ていた。足枷を見てから、こっちの顔を見ると同じことを繰り返す。こちらも足枷を見てから子供の顔を見、手の中にある足枷をひらひらと振ってみせると、子供は足枷が嵌っていた自分の左足を見た。そして再び口を開けたままこちらを見る。その目には先程とは違って少し光が戻っていたような気がした。
足枷を音を立てないように床に置いて今度は子供の首元に両手を伸ばすと、何をするのか察したのか、今度は抵抗しないで顔を上へと向けて黙っていた。足枷を外した時よりは随分と簡単に首輪がちぎれる。それも床に置くと、子供が自分の首をさする。そのまま口を開くが、ぱくぱくと開閉を繰り返すだけだ。
「声は出すな、っつうより、喋れねえのか? お前、俺と同じか?」
質問の意図が分からないらしい子供が数秒置いて首を傾げる。仕方が無い。
「こういうことが出来るか、ってことだよ。目ぇ見てろ」
言いながら外した足枷を持ち上げ、今度は目を閉じずに割ってみせる。すると子供が少し目を見開いてふるふると首を横に振った。
「まあ、仕方ねえか。まだ自分で分かってねえだけだ。親がこうじゃなかったか」
親と聞いて反応するかと思ったが、首を傾げ、そして横に振る。
親が分からないということか?
戦争孤児にしてはそんな年齢にも見えない。戦争が終わったのは約十年前だが、この子供は良くて三、四歳に見える。ということは物心つく前に離されたか、死別したか。あるいは……親も同じ状況下にいたかのどれかか。恐らく行く宛などないだろう。
考えている最中で足音が聞こえてきた。先程通り過ぎた連中だろうか───と、そこで気づく。足音からして何か焦っている様な感じだ。恐らく忍び込んだことはバレていないだろう。こんな時間にそれ以外で慌ただしくなるとなれば。
「……お前のこと、探してんのかもな」
一言呟けば、子供がびくりと肩を震わせた。視界の端でそれを捕らえて子供の方を見やれば、先程より顔色を悪くして目にうっすらと涙を浮かべている。そして必死になって首を横に振り、こちらにしがみついてきた。弱々しい力ではあったが服にしわを作り、手を震わせて。拒まないでいると顔を服に埋めて、声こそ出ないものの、しゃくり上げて泣きだした。
あの鎖がまかれた状態を見れば逃げ出してきたことくらい分かる。そして扱いの酷さも。それなのに戻れと言うのはあまりにも非情だろう。このまま放置しておくのも忍びなかった。
やれやれ、と内心で溜め息をつく。
「おい」
子供が顔を上げたのを確認して足枷と首輪の残骸を拾って預ける。そのまま片腕を子供の両足の膝下に通して立ち上がると、距離の近くなった子供から微かに違う匂いがした気がした。持ち上げられる格好になった子供がとっさに首にしがみつき、地面とこちらを見比べた。
「黙ってろよ」
声が上げられない静かな子供であることは分かっていたが、念を押し、片腕で抱きかかえた状態のまま侵入してきた部屋へと戻る。
そして窓を見上げ、そこまで一気に飛び上がった。窓のところまでたどり着くと、今度は外の様子を確かめる。誰もいないことが分かってから一気に飛び降りた。
音も無く着地し、今度は怖がってしがみついてくる子供に向かって話しかける。
「出たぞ」
子供が服に埋めていた顔を上げると、辺りをきょろきょろと見回す。目を見開いている様子から伺えるのは『信じられない』といったところか。かまわずにそのまま歩き出すと、子供は戸惑って身じろぎしてきた。それを無視し歩き続ける。追っ手が来ようものなら、足音が聞こえるし気配もするだろう。楽観的な考えを持って歩き続けたその先は、この街の出口の一つへ向かう大通りだった。
ここは元々獣対策の為に強力な外壁を作り、中にある街そのものをすっぽりと囲っている構造なのだ。出入り口は四つ。どれも対角線を描くようにして向かい合い、大通りがそれを繋いでいる。合間は屋敷や民家・商店などの建物と小道で埋め尽くされており、昼間は賑やかな街並をみせる。
まだ完全に夜が明けずに昼間の賑わいの片鱗も見えない頃。
金髪碧眼の青年が小さな子供を片手に抱き上げたまま人気のない大通りを歩いていた。ふと足を止めると右へと曲がり、先に一つだけぽつんと建っている古びた建物の元へと向かう。そのままドアノブへ手をかけ、開けようとして……止まった。
「おい、開けろ」
出来るだけ声量を押さえて言うが、辺りはしんと静まり返るばかりだ。チッと舌打ちをしてガタガタと音がたつほどにドアノブを揺さぶる。それでも開く気配のないドアに向かって一蹴りすると、抱えっぱなしだった子供がびくりと身体を震わせた。それに気がついて一度子供を下ろすと、先程よりも強い力でドアを叩きだす。ところがなんのリアクションもないことが分かると溜め息を一つつき、ドアへぴたりとくっつくようにして耳を当てる。
ドアを隔てて微かに息づかいが聞こえる。が、これはどう考えても。
「寝てやがる……」
聞こえてくるのは明らかに寝息なのだ。それに気がついた金髪碧眼の青年は僅かに青筋を浮かべると、ドアノブへと手を伸ばし再びガタガタと揺さぶる。それが彼なりの最後通告であった。
「開けねえんなら、こうするまでだ、な!」
言うと同時に飛び出したのは蹴りだった。踏みつけるような形でドアに向かって蹴りを入れると、耐久性のさほどないドアはいとも簡単に傾いでいったのだった。ただし普通に開いた訳ではなく、蝶番が全て吹っ飛び、ドアが丸ごと建物の中へと倒れていく形でだが。
「んがっ、な、なんだぁ!?」
ドアが床に倒れる音に、中にいた別の青年がびくりと反応し慌てて口元の涎を拭う。金髪碧眼の青年は半分寝ぼけ眼のその人物の元へ向かうと、がっ、と勢い良く頭を片手で掴んだ。
「気配に気づかねえどころか、ノックにも反応しねえとか、テメェ本当にハンターか?」
「無っ茶苦茶怒ってる!? つ、つい寝ちゃってって痛い痛い! ケイルさん、おれが悪かったですから頭放して!」
金髪碧眼の青年ことケイルがじたばたと暴れる彼の頭を放すと、彼は座っていたイスからぼてっと音を立てて床に落ちた。が、落ちた本人は先程掴まれていた部分がよほど痛かったのか、頭を抱えたまま悶絶していた。
「ちょ、勘弁して下さいよ、寝起きにアイアンクローは……」
「なんならこのまま、かかと落としでも追加するか?」
「どうしてそんなに怒ってるんですか!?」
「遠慮ならいらねえからな」
「顔が笑ってないよ……! 遠慮じゃなくて拒否です拒否! 足技は勘弁して!」
若干顔を青ざめさせて後退する彼に対し、ふんと鼻を鳴らす。すると一連の流れを見ていた子供がとてとてと近づいてきて、ケイルの足にすがりついた。それに気づいてケイルが自分の足下を見やると、子供がじっと見つめてきてふるふると首を左右に振る。
「蹴るな、ってか? ホントに蹴りゃしねえよ。嘘だ、嘘」
「その子は?」
まだ痛むのか若干涙目の彼が片手でこめかみをさすりつつ聞くと、子供が今度はじっと彼を見つめる。目をぱちぱちと瞬かせると、彼の元へと移動してさすっている部分をぽんぽんと慰めるようにして触ってきた。
「ん? 痛いの痛いのとんでけ〜ってこと? ありがとなー」
「はあ、人見知りはなさそうだな。じゃあ、まかせた」
「じゃあって、ええ!? ちょっと、説明して下さいよ! この子は一体!?」
子供の頭を撫でていた彼が驚いて声を上げると、ケイルは子供を指差す。不思議に思ってそのまま視線を子供に戻すと、子供の片手にはちぎれた真っ赤な首輪と枷が握られたままだった。それを見て何か察したのか、彼は子供をぎゅっと抱き寄せると、片手で頭を撫でながらケイルに向かって問いただす。
「一体何処で見つけました?」
「この街一番の金持ちの所、って言えばいいか?」
「ハクリーグか。確かにあいつならやりかねないな。顔を見せてご覧?」
そう言って子供の顔を覗き込むと、頬についた黒くこびりついた汚れを指先で拭ってやる。少しばかり子供が顔を引きつらせたので何事かと思うと、汚れの下には比較的新しい傷跡が見えた。
「ちなみに、だ。俺はそいつが近づいてくるまで気配を感じ取れなかった」
「じゃあ、この子も? それなのに傷が治ってないとなると、相当酷い扱いだったってことですかね。こんなに痩せてるし……ちょっとごめんな〜」
子供の両脇を抱えると先程まで自分が眠っていたイスの上に座らせ、足首の傷を確認した。一度痛みに顔をしかめて少しだけ足を引っ込めたものの、子供は大人しくしている。それを見た彼は何処から取り出したのか、包帯や薬を持ち出して手早く足首の傷の手当を始め出した。
「で? この子を連れてきた理由は。大方予想つきますが」
「お前らのボスなら、なんとかしてくれんだろ」
「やっぱね、やっぱそういうことだと思いましたよ」
「不満か?」
「いーや、何一つ。でもね、サポートに回れとは命令受けましたけど、これは予想外です。なんとかしますが」
彼はくるくると巻いていた包帯を丁度いい長さで切り、完全に処置を終えてから「終わったぞー」と子供に向かって笑いかけて頭を撫でる。撫でられた方はきょとんとして自分の頭を両手で触り、一度だけ頷いた。と、長過ぎる服の袖から出てきた細い腕にも傷跡らしきものがあるのに気がつく。
「あれ? こっちも痛くない?」
言いながら腕をとって傷跡を確認しようとするが、寸前で子供が肩を震わせて片腕を隠すように抱え込んでしまう。そして必死に首を横に振るのだ。その姿を見て一拍間を置くと「そっか」と彼はそれ以上追求する事はしなかった。
「ところで、そーっと出て行こうとするの止めてくれますぅ? ちょっと用件がね、あるんですよ〜」
「用件だぁ?」
「ほらぁ、そこのドアとかドアとか、ドアとかの話〜。直すの手伝ってくれますぅ〜?」
背後で気配を消したまま出て行こうとするケイルに彼が笑顔で呼びかけると、ケイルのジャケットを掴んでつかつかと歩きながら外へ向かう。子供が追おうとしてイスから降りたが、彼は「ちょっと待っててね〜」とその場に留まるように言うのだった。言われた子供が立ち止まるのを見届けてから今度はケイルの背を押して外へと出て行き、倒れたドアを持ち上げて元々あった入り口付近に立てかける。子供から自分たちの姿が見えなくなった事を確認すると、一度溜め息をついてから口を開く。
「注射痕」
「あ?」
「あの子の腕についてました。あんな簡単な服を着せられてる事と言い、最初はペット扱いされてただけかな、と思いましたけど。ありゃ比較的新しいし、まるで手術着だ。それから首輪、足枷がついてた痕以外、虐待したような痕が見られない。治りが早くて既に痕がなかっただけかもしれませんが、あの子、決してペットとして飼われてたわけじゃなさそうってことです」
その言葉に眉根を寄せるケイル。そして子供を抱き上げた時の事を思い出す。
「なんとなく消毒臭ぇ気がしたのはそのせいか……」
「顔の傷跡も切り口が奇麗過ぎた。刃物で切ったってところですかね。あとは足。足首とは別に、薄く縫合したような痕も残ってます。腕にも。あの様子からするに、見えない部分にもかなりの痕があると思っていいかと。以上、これらのことから考えられる可能性は一つです。おまけにその結論の後押しする悪ぅーい情報が、あのハクリーグにあるんですよねー」
頭を悩ませる問題であることを示すように、指を眉間に当てて頭を左右に振る。ケイルから何のリアクションもないのでちらっと見ると、ケイルは顎で続きを言うように示した。
「あいつ、何人かの医者と繋がってるんです。それも元・軍部の。あいつ自体、元が軍人だから当たり前っちゃ当たり前ですが……医者と言っても前線で治療に当たってた方じゃない、裏方の医者でして。医者って言うより研究者って言う方が近い奴らです。いわゆる世間一般でいうマッドサイエンティスト?って呼ばれそうな感じの」
「最悪じゃねえか」
「なんですよね。なーにが楽しくてお友達やってんだか。あんまり深入りはしない方が得策かも」
最後に「けっ」と吐き捨てながら、やれやれといった具合に両手を広げて皮肉る。その様子を見ていたケイルは腕組みをしたままで少しだけ俯き、唸り、軽く溜め息をついたかと思えばまた唸った。
「何かひっかかることでも?」
「いや……まだ目当てのモンを確認しねえまま来ちまったと思ってな」
がしがしと片手で頭をかきながら、自分が子供を連れて抜け出してきた屋敷のある方角を見る。その目つきが険しくなったかと思うと、振り返って青年の方へと早口で喋りかけた。
「俺は戻る。あれは任せた。日が昇りきる前にとっとと街から出ろ。これ以上は関わんな、足がつくから邪魔だ」
言い終わるとスタスタと足早に去っていこうとする。 そんなケイルの勢いに呆気にとられていた青年だが、二、三メートル先まで遠ざかった所で「ちょちょちょちょ! ちょ! ちょーっ!」と吃りながら追い、ケイルの肩を掴む。
「んだよ、声でけえな」
「戻るって!? さっきおれが深入りすんなって」
「それが得策『かも』ってだけだろ? 俺はまだ目当てのモンを確認してねえっつったろ」
「だからって! ノコノコ戻る理由はないでしょう!? 時間も経ってるんだ、今行ったら警備の奴らに気づかれ……」
そこまで言って青年は言葉を切った。彼が何かに気づいた事を察したのか、ケイルは自分の肩を掴む腕を払って鼻を鳴らす。
「警備の奴らと遊んでくるだけだ」
ケイルはそのまま一度も振り返らずに屋敷の方を目指して歩いていく。後ろ姿を見送った青年は、彼が暗闇の中へと消えるまで黙って突っ立っていたが、やがて大きな溜め息をついて脱力し、首をこてんと傾げながら呟いた。
「囮って……ちょっと、お人好しが過ぎないか?」
だがその呟きに誰かが答える訳もなく、青年は流されるままに預かってしまった子を連れてすぐに街を出る準備を始めたのだった。
やがて空が白んで鳥が鳴き始めた頃。ケイルは再び屋敷の中に入っていた……のはいいのだが、予想に反して屋敷の中は物音一つしなかった。
───警備も何もありゃしない。
侵入前にずさんな警備体制と称しはしたが、それ以前の問題かもしれない。屋敷の中の人間だってそろそろ起き上がってきてもいい時間帯だろう。ついでにいうと目当てのものは確認こそした。が。
「模造品かよ……」
目的としていたその石はご丁寧にもショーケースに飾られていた。ただ、思いっきり発信機らしきものがついている。小さいとは言え、紅く点滅する光が見えているのだ。おまけにショーケースの外側にはいくつも張り巡らせられた赤外線。触れた瞬間に警告音が鳴る仕組みだ。
なるほど、このように(レプリカだが)石自体に仕掛けが施されているとなれば、誰が手を出すだろうか。手を出した所ですぐに警備員が駆けつける。そう言えばこの屋敷の主は犯罪者捕獲に力を入れていたはずだ。わざとこうして警備を薄くし、のこのこやってきた奴らを捕まえようと目論んでいるのかもしれない。
───だからと言ってあまりにも分かりやす過ぎやしないか?
そう思いはするものの、忠告してやる義理も情けも持ち合わせていないし、放置する以外に他ないのだが。
そして気になる点が一つ。あの子供を連れて行く直前に聞こえてきた足音。それすらも消えている。子供を抱えたまま屋敷を飛び出してからどれだけ経っただろう。これだけ物音がしないとなると、時間が経ちすぎたせいで足音の主たちは捜索自体を止めた可能性もある。
もう一つだけ可能性が上げられるとすれば、 既に侵入経路及び、子供の行方が分かった上でそちらを追っている可能性だ。だがそれはほぼあり得ないと言っていいだろう。この屋敷に戻ってくる前、ご丁寧にも全く同じルートを辿ってやってきたのだ。ルートは大通りの中の一つであり、ほぼ一本道。あの子供を追っているような人物がいたら、まず屋敷につく前に鉢会わせることになる。
さて、どうしたものか。
屋敷に来た時点で警備員自体が居るだろうと踏んで再びやってきたのだ。だがこうも気づかれていないとなると、侵入者としては好都合ではあるが……もう一方の時間稼ぎが出来ない。放置しておいてもいいものか、とも考えるが、いずれ逃走経路がバレる可能性だってある。あの子供の怯え具合と聞いた推測からして、この屋敷の中自体に“何か”がある。その中の大事な大事なものが逃げ出したとなれば、待っている末路は容易に想像出来る。
そんな事を考えていた時、まるでタイミングを見計らっていたかのように複数の足音が聞こえ始めた。一体何者の足音なのか、判別するには難しいが少しばかり感覚を研ぎすませてみると、ツンとした匂いが鼻を突く。続けて聞こえてきたのは「見つけたか?」の一言。
確実にあの子供の事を言っているであろうそれに耳を傾ける。「こっちはダメだ。あれだけ小さいんだ、物陰に隠れてるかもしれない」
「どうだか。こっちは物陰も探したが、見つかりゃしない。お宅ら、適当に探してないか?」
「これだけ探していないとなると、あとは……でも、まさかな」
「屋敷の外に出たかもしれないということですか? 分かりませんよ、可能性はあります」
「何言ってるんだ、あんなのが一人で出られるもんか!」
「お静かに。理由はあります。個体によって発現率と発現時期は違います。重々お分かりですよね? 」
「……何かがきっかけで発現した上、逃げ出した、と」
「低い可能性ではありますが、ないとは言い切れないでしょう」
「くそ! よりによって俺が番の時に逃げ出しやがって……!」声のしている方向へとそっと近づき、物陰から伺い見ると体格がそれぞれ違う四人の人影があった。だがどの人物を見ても上から白衣を羽織っているいかにも“研究者”といった風体だ。四人は口論をしながらも徐々に遠ざかっていく。あいつの言った事、当たってたな。と一人ごちるが、問題だ。
あの子供を捜している事が早々に分かった以上、出来るだけそちらに目が向かないようにする必要がある。でなければわざわざ戻ってきた意味がない。預けてきた奴が子供を連れ立って街を出て、足がつかないくらいに遠くに行かせるだけの時間が欲しい。子供を探していられない状況が。
だからと言ってあの研究者らしき四人の前にいきなり現れて挑発した所で、繋がりがありますよと言っているようなものだ。それはまずいだろう。今の状況下で簡単に気をそらす方法、かつ、関連性がないように見せる方法。
───一つ、簡単な方法がある。
気づいてから足音を立てずに出来るだけ素早く移動し、石がある方へと向かう。それを取ろうとして───止めた。いきなり取れば警告音だけが鳴り、会話を聞いていたことがバレる可能性が跳ね上がる。
思い直してきびすを返し、侵入経路であった窓の元まで向かう。その壁には展示物が栄えるようにということなのだろうか、ちょうど良くも暗幕がかけられている。窓の元へと飛び上がり、外に誰も居らず見られる事がない事を確認すると、隠し持っていたナイフで暗幕を切り裂く。切り裂かれた暗幕の端をぐるぐると右手に巻いて、外側から内側へと向かって思い切り窓を殴り割った。
派手な音こそしなかったものの、これで充分あの四人には聞こえたはずだ。
手早く暗幕を手から外し、直前まで嵌まるべきガラスのあった窓枠へ暗幕を結びつけて固定し、反対側を部屋の中へと垂れ下げる。そのまま部屋の中へと着地すると、窓の割れる音を聞きつけたらしい複数の足音が聞こえてきた。こうなればもはや気配を隠す必要はない。
石があった部屋へと向かうと、そのままショーケースへと手を伸ばす。途端にけたたましく鳴り響く警告音。部屋どころか屋敷中に響いている事だろう。ショーケースを外そうとして触れると、ビリッ、と一瞬だけ手に痺れが走る。電気も通していたらしい。それにかまわずに外し、中にあった石を取えるとそのまま逆走し、侵入経路である窓のある部屋へと戻る。
部屋へたどり着くと足音が間近まで迫ってきていた。それを確認すると窓枠まで一気に跳ね上がり、暗幕の垂れた部分をたぐり寄せて石を持っている方とは反対の腕で抱え込み、部屋の中へ背を向けた状態で少し待つ。普通の侵入者と同じように窓を割り、暗幕を使って侵入、脱出したように見せかけるためだ。と、ちょうど良く先程の四人がたどり着いてこちらを見た。
「し、侵入者だ! 警備は何をやってる!」
けたたましい警告音にも負けずに怒鳴り散らす男を見て、は、と鼻で笑ってやる。抱えていた暗幕を外へと放り投げると同時に、手元にある石を見せつけるように一度だけ放って掴み、一言。
「とろいんだよ、馬ぁー鹿」
片手で暗幕を掴み、そのまま窓の外へと滑り落ちるようにして出た。同時に警備員らしき数人が屋敷の角から飛び出して向かってくるが、まだまだ距離はある。あとはさっき来た道とは逆方向を行くだけだ。それも入り組んだ道を使ってたっぷり時間をかけて。せいぜいゆっくり行く事としよう。
こうしてケイル・カーティストは追われる立場となった。
限られた状況下で即興の計画的犯行と脱出を演じてみせた彼だったが、続く逃亡劇はとある出会いによって予想していなかったものと変貌し、彼自身をも巻き込みながら転がり始めたのである。
良い方向へと転がったのか、それとも悪い方向へと転がったのか。
賽はとっくに投げられていたのだ。それはいずれ否応にでも思い知る事となるだろう。